薩土同盟|薩摩藩-土佐藩-長州藩の協力体制

薩土同盟

武力による討幕を訴える薩摩藩と穏健的で公議政体論を掲げる土佐藩が同盟関係を結ぶ。中岡慎太郎坂本龍馬など土佐藩に縁のある人物の仲介で、土佐藩は薩摩藩との盟約関係を構築した。薩摩藩はそれ以前に薩長同盟を結んでおり、やがて土佐藩-薩摩藩-長州藩(これに芸州藩が加わる)が同盟関係を結び、討幕や明治維新を主導する役を担うようになる。

目次

武力討幕の薩摩藩と公議政体論の土佐藩

八月十八日の政変以来、長州藩は薩摩藩を敵対視していたが、1866年の長州征討(第二次)を前に坂本龍馬らの仲介で薩長同盟が結ばれていた。一方、武力討幕を唱える薩摩藩と公議政体論を唱える土佐藩とは、相容れないものがあった。

薩土同盟の締結

前土佐藩主の山内豊信(容堂)らの公武合体論を推し進めようとした土佐藩の乾退助(板垣退助)らは、薩長同盟の立役者である中岡慎太郎の仲介で、乾退助(板垣退助)中岡慎太郎とともに京都にて薩摩藩西郷隆盛小松帯刀大久保利通らと会見し、薩土同盟はむすばれ、出兵の盟約を締結した。

もうひとつの薩土同盟

薩土同盟が締結されるおおよそ3カ月前にも、もうひとつの薩土同盟ともいえる盟約を結んでいる。土佐藩の後藤象二郎は、坂本竜馬と船中八策をもとに政権を朝廷に返上し、上下議政局を設置することを構想していた。そこで1867年6月に坂本龍馬とともに京都を訪ね、6月22日、坂本龍馬中岡慎太郎の仲介で薩摩藩西郷隆盛小松帯刀大久保利通らと会見し、薩土盟約を締結していた。

長州藩-薩摩藩-土佐藩-芸州藩

その後、薩摩藩の大久保利通は長州に赴き、広沢真臣らと討幕出兵の具体的内容を協議した。また、長州藩と芸州藩(広島)とのあいだにおいても出兵の盟約が結ばれた。しかし、薩摩藩・長州藩・土佐藩・芸州藩の出兵の盟約は2月に討幕の密勅が下されたのち、破棄されることとなる。こうして、薩摩藩を中心に長州藩と土佐藩の間で盟約が結ばれ、明治維新で中心的な役割を果たす三藩が連携関係になることができた。

タカ派の薩摩藩・長州藩とハト派の土佐藩

王政復古の中心となっていたのは薩摩藩であった。大久保利通薩長同盟、薩士盟約、さらに後藤象二郎が芸州藩を巻き込み四藩連合が成立した。しかし、土佐藩は武力行使には消極的であった。
1867年8月中旬、京都で薩摩藩の大久保利通と広島の辻将曹(つじしょうそう)が会談した。また、9月下旬には山口で大久保利通は長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、広沢真臣らと会談。さらに芸州の使者を交えて三藩による出兵協定を結んだ。一方の土佐藩は大政奉還を主張し、9月下旬には武力行使を保留する態度を示した。

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