第二次征長戦争(第二次長州征伐)

第二次征長戦争

第二次征長戦争は、14代将軍家茂は、再び討幕を掲げ度重なる召喚拒否する長州藩に対し、長州征伐を決定、第一次征長戦争に次ぐ幕府軍と長州軍の戦争である。長州軍は亀山社中仲介にて欧米の近代兵器をそろえており、圧倒的多数の幕府軍に対して圧勝を治める。幕府側にとって、「やらなければよかった戦争」であった。

第二次長州征伐

第二次長州征伐

長州藩・高杉晋作

長州藩は第一次征長戦争の後、3人の家老の首を出し、恭順の姿勢をとっていたが、正義派率いる高杉晋作は俗論党(恭順派)を退け、長州藩の藩論を再び討幕へ統一した。幕府はこれに対し、長州藩に制裁を加えることを決定。14代将軍家茂自ら出陣した。

幕府軍

慶応元年(1865) 5月、家茂は江戸城を出発し、大坂城を本陣とする。度重なる長州の召喚拒否に対し、同年9月には朝廷から長州征討の勅許を得た。家茂の風貌は、錦の陣羽織に金の太刀、白馬にまたがり、と伝統的なものであった。旗本の彦根藩と会津藩は士気が高かったが、第一次征長戦争同様、その他の藩は士気は高くなかった。なお、薩摩藩は中立を守り、出兵を拒否していた。

長州軍

長州軍は、亀山社中坂本龍馬・グラバー)から南北戦争で使われていた武器(洋式銃)を大量に購入していた。そのため、近代的な先鋭部隊となりえ、徳川軍を圧倒することとなる。

四境戦争

慶応元年(1865)11月に各藩に出陣命令を出す。幕府軍は兵10万を率いて、大島、芸州、石州、小倉の四境から侵攻した。(そのため四境戦争とも呼ばれる。)

第二次征長戦争

第二次征長戦争・四境戦争

大島口の戦い

1866年6月7日、幕府軍艦は大島を攻撃、占領した。これに対し、長州藩は、12日高杉晋作はみずから丙寅丸を指揮し夜陰に乗じて、幕府軍を攻撃した。長州軍(農商兵)約500人に対し幕府軍(松山藩、宇和島藩、幕府艦隊、幕府陸軍)約2000人であった。6月15日、幕府軍は敗走した。

石州口の戦い

石州口では、6月16日、長州参謀の大村益次郎が指揮して浜田藩領に進擊し、7月18日、浜田城を占領した。近代的な大砲、小銃で武装し、戦術にも優れ、正規軍ではない農兵隊が補給などに活躍。そのため、幕府・諸藩の連合軍は敗退した。長州軍(清末藩兵・諸隊)1000人に対し、幕府軍(浜田藩、福山藩、因幡藩、松江藩)30000人であった。

芸州口の戦い

6月13日、芸州口で開戦したが、戦況激戦により長期化。長州軍(遊撃隊など諸隊)1000人に対し、幕府軍(紀州藩、彦根藩、大垣藩、幕府陸軍)約50000人。

小倉口の戦い

6月17日小倉口で開戦する。長州藩が先制を期して、海上からの門司攻撃を行った。長州軍(奇兵隊・長州艦隊、報国隊など)約1000人に対し、幕府軍(小倉藩、肥後藩、久留米藩、柳川藩、幕府艦隊)20000人であった。8月2日、長州軍は小倉城を占領する。

幕府の敗退

幕府側は小倉城の落城に加え、前方面で敗色濃厚となり、総督・徳川茂承は辞表を出して、撤退。7月に大坂城にいた将軍家茂が急死し、幕府軍は敗退する。死因は脚気と言われている。(毒殺という説もある。)8月21日、幕府軍は長州征伐を中止を決定した。

桜島丸(乙丑丸)の遅刻

第二次征長戦争が始まると、 「桜島丸(乙丑丸)」は高杉晋作の指揮下に下に置かれることになっていたが、薩摩藩との所有権での衝突、そして、ウイルウェフ号の沈没のため、桜島丸は大幅に遅れてしまう結果は乙丑丸は高杉晋作率いる長州艦隊に配備され、下関の対岸の小倉藩を攻撃した。

高杉晋作の死去

高杉晋作は結核が悪化し、吐血して倒れた。翌年の慶応3年(1867)に死去する。

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