亀山社中|坂本龍馬,海援隊,近藤長次郎,小松帯刀,勝海舟

亀山社中

亀山社中とは、1868年に坂本龍馬が長崎で立ち上げた海運・貿易の会社である。勝海舟池田屋事件で死んだ望月亀弥太の責任を取る形で海軍操練所を解任されると、海軍操練所を継ぐかたちでトマス・グラバー、五代才助などの協力を得て設立された。後の海援隊となる。そのため海運と同時に私的軍隊の傾向もある。メンバーは元海軍操練所の者が多く給料は薩摩藩から全員一律月3両2分支払われた。得意とする航海術を利用して交易の仲介や運搬で利益をあげようとした画期的な事業だったが、経営困難のため、わずか2年間で土佐藩に移されることになる。

勝海舟

勝海舟

勝海舟の海軍操練所の解任

勝海舟が海軍操練所を解任されたため、塾生達が生活の糧を失う。そこで、薩摩藩の家老小松帯刀に相談し、社中(会社)を設立するに至った。場所が長崎の高台「亀山」であったため、亀山社中と呼ばれる。

メンバー

長岡謙吉、陸奥陽之助、五代才助。
トマス・グラバー:長崎で貿易業を営むスコットランド人
五代才助:薩摩藩士、イギリスとの貿易を行う。

坂本龍馬の銅像

坂本龍馬の銅像

武器の輸出

慶応元年(1865)6月、薩摩藩家老の小松帯刀に了承を得た上で亀山社中は薩摩名義で外国から武器を買い、第二次征長戦争を前にした長州へ横流しを行っている。7月、長州の伊藤俊輔(伊藤博文)と井上聞多(井上馨)を、近藤長次郎にあわせ、近藤長次郎は伊藤と井上を小松帯刀に紹介した。八月にグラバーから武器を買い付け、下関に運び込んだ。

ユニオン号

1865年、近藤長次郎はグラバーから軍艦ユニオン号を買い付けた。5月に中岡慎太郎坂本龍馬、桂小五郎、伊藤俊輔(伊藤博文)、井上喜多と密談し、船の購入を決めた。ユニオン号は薩摩名義であるが、長州が使用することになる。そのため、船名を薩摩が名付けた「桜島丸」と名付けるか、長州が名付けた「乙丑丸」とするかで衝突し、ひとまず船を長崎に戻すことに決めた。

亀山社中の身売り

1866年7月、征長戦争で幕府の敗退をみて土佐の参政、後藤象二郎は西欧の武器や軍艦を買い付けた。慶応3年(1867)1月、後藤象二郎の申し出から坂本龍馬と会見を行い、長崎清風亭で会談する。後藤象二郎は土佐勤王党の弾圧から龍馬と衝突していたが和解が成立。脱藩の罪を許され、亀山社中を土佐藩への身売りが決定した。

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