中岡慎太郎|土佐藩,坂本龍馬,死因

中岡慎太郎

幕末期の政治活動家。志士。土佐藩出身。天保9年(1838年)4月に土佐国安芸郡北川郷の大庄屋である中岡小伝次と妻の初の間の長男として誕生する。憂国の学者・間崎滄浪に学問を、土佐勤王党の武市半平太に剣術を学んだ。筑前勤王党の月形洗蔵や早川勇と同様に「薩長一和」の思想を持ち、薩摩藩と長州藩を結びつけるため、各地を飛びまわり政治活動を行なった。禁門の変や下関戦争にも従軍している。坂本龍馬の海援隊につづいて陸援隊を作る。坂本龍馬と会談中に京都見廻組に襲撃されて重傷を負い、数日後に亡くなった。

中岡慎太郎

中岡慎太郎

目次

農民

中岡慎太郎が庄屋見習いだった若い頃、土佐で飢饉が起こるが、篤実な人柄で、中岡慎太郎は家老の門前で座り込みを続け、備蓄米を放出させて農民を助けた。

脱藩まで

文久元年(1861年)、武市瑞山が「土佐勤王党」を結成すると加盟し、政治活動に挺身することになる。文久2年(1862年)に「五十人組」(庄屋・郷士・足軽などから構成される)の伍長として江戸に向かった。この直後に、久坂玄瑞などと水戸・松代などを歴訪し、佐久間象山と会談した。文久3年(1863年)、元土佐藩主の山内容堂が京都に入ると、中岡慎太郎は他藩の者たちとの応接を担当する役を担ったが、山内容堂が高知へ帰国するとそれに従った。「八月十八日の政変」以後、土佐藩では「土佐勤王党」への弾圧が激しくなったため、中岡慎太郎は脱藩し、長州藩へ向かった。

中岡慎太郎

中岡慎太郎

薩長同盟へ

元治元年(1864年)、「禁門の変」では長州藩の遊撃隊に属して戦い、足に銃弾を当てて負傷した。長州に逃れた中岡慎太郎は、忠勇隊総督や五卿(八月十八日の政変で長州に逃れた三条実美ら5人の公卿)の護衛などを務めた。
慶応元年(1865年)、筑前浪士の中村円太と共に五卿の太宰府への移動について薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)や筑前藩の月形洗蔵らと交渉した。中岡慎太郎は西郷隆盛を刺し違えんとしていたが、交渉の中で、長州が恭順策を提案すると、これを了承。西郷吉之助(西郷隆盛)はいずれ薩摩と長州が手を結ぶことを見据え、いま薩摩と長州との戦争を避けた。これに附随して、「八月十八日の政変」以来仲違いしていた薩摩藩と長州藩の関係修復と提携についても行動するようになり、同じ土佐浪士の坂本龍馬や土方楠左衛門(久元)らと共に尽力した。結果的に桂小五郎(木戸孝允)が京都に入り、小松帯刀西郷吉之助(西郷隆盛)と共に会談し、薩長提携が進んだ。
「窃かに知己に示す論」は中岡慎太郎の論文であり、大政奉還の実現を論じている。

陸援隊

慶応3年(1867年)、土佐藩と積極的に接触し、脱藩の罪も許される。土佐藩士の乾退助(板垣退助)を薩摩藩側に紹介し、芸州藩を中央政局に導くなど、「仲介人」の役割が際立っている。京都白川の土佐藩邸に浪士を収容し、「陸援隊」を結成した。

志半ばで死す

11月15日に京都河原町の近江屋にて坂本龍馬と会談中に京都見廻組に襲撃される。中岡慎太郎は一命を取り留めたが、瀕死の重傷で2日後に死去した。

参考文献

平尾道雄『陸援隊始末記―中岡慎太郎』(中央公論新社、2010年)。
宮地佐一郎編『中岡慎太郎全集』(勁草書房、1991年)。
『国史大辞典』「中岡慎太郎」(執筆:吉田昌彦)。

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