板垣退助|土佐藩,戊辰戦争,廃藩置県,立憲自由党,第一次大隈重信内閣他

板垣退助

板垣退助(天保8年(1837)~大正8年(1919))は幕末期の土佐藩士で明治・大正時代の政治家である。

幕末期の板垣退助

天保8年(1837)4月17日、高知城下にて土佐藩士(馬廻格)乾正成の子として生まれる。文久元年(1861)、土佐藩の江戸藩邸詰を命じられ、山内容堂の側用人となった。
文久3年(1863)、山内容堂に随従して京都に上った。元治元年(1864)に大監察となったが、翌年に辞職して江戸で兵学を学ぶ。慶応3年(1867)5月、京都にて小松帯刀西郷隆盛らと会談し、板垣退助は討幕のための挙兵を行うことを約束した。この後、板垣退助は土佐藩の軍備総裁として兵制改革を行う。

戊辰戦争

明治元年(1868)に戊辰戦争が勃発し、土佐藩の司令官として上京して薩摩藩・長州藩と共に新政府軍(官軍)の中心となった。板垣退助は東山道先鋒総督府参謀に任命されて各地を転戦し、会津若松城の攻略など武功を挙げた。明治2年(1869)、高知藩大参事となって藩政改革を取り仕切り、続いて中央政府に出仕して参与に任命された。

廃藩置県

廃藩置県を断行するために、高知藩兵を率いて西郷隆盛大久保利通木戸孝允らと共に上京して成功させた。参議に任命されて、岩倉使節団の外遊を守る留守政府では西郷隆盛と共に首脳的位置に在った。明治6年(1873)、征韓論を主張していたが、西郷隆盛の朝鮮使節派遣論を支持するに至る。しかし、「明治六年政変」によって政府を退き、明治7年(1874)に後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らと愛国公党を結成して同時に「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。その内容は政府の「有司専制」を批判して国会開設を訴えるものであった。同年、立志社を結成する。

立志社

明治8年(1875)、大久保利通との大阪会議によって木戸孝允(台湾出兵に反対して下野)と共に政府に復帰し、参議に任命される。しかし、すぐに辞職して高知に戻って立志社の経営を行なった。明治10年(1877)、西南戦争が勃発したが、板垣退助は目立った行動はしなかった。

愛国社への参加

明治11年(1878)、板垣退助は愛国社の再興に加わる。自由民権運動が高まりを背景に板垣退助は各地を遊説して回ることで支持を集めた。明治14年(1881)、政府により国会開設が宣言されると、自由党が結成され、板垣退助が総裁となる。明治15年(1882)、遊説のために来訪していた岐阜で刺客に襲われて負傷した。後藤象二郎らと共にヨーロッパ諸国を外遊したのも、この頃である。明治17年(1884)、自由党が解党される。

伯爵

明治20年(1887)、華族制度によって爵位が授けられようとし、一旦は固辞するが、天皇の恩命として伯爵を受けた。

立憲自由党

明治23年(1890)、立憲自由党が結成されると参加した。翌年に自由党と改称された際には総理となる。第二次伊藤博文内閣では内務大臣となる。

第一次大隈重信内閣

明治31年(1898)、自由党と進歩党の合同で憲政会が誕生し、第三次伊藤博文内閣が総辞職すると、大隈重信と共に組閣の大命が下り、日本初めての政党内閣である第一次大隈重信内閣が誕生した。板垣退助は内務大臣を務めたものの、やがて総辞職した。板垣退助は政界を引退して、大正8年(1919)7月16日に病没する。

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