儒学|日本における儒教研究,聖徳太子から明治維新

儒学|日本における儒教研究

儒学とは、中国古代に栄えた儒教の思想を基本とした学問である。中国、朝鮮、日本で発展した。日本では4~5世紀ごろに伝わり、室町時代の終わりまで学問は一部の知識人の間のみで伝授され、一般市民のもとまで普及されることはなかった。江戸時代にはいると、幕府によって朱子学を官学に指定され、儒学が奨励され始める。各大名も江戸幕府の方針に従い、藩校を開設し、儒学を取り入れ急速に広まることとなる。そうした中で、民間の寺小屋にまで『論語』の影響力は届き、武士から町人まで幅広く『論語』や孔子の思想が親しまれるようになった。儒学は明治維新にも引き継がれ、旧制の中学校や高校の場でも漢学が普及・実施されたが、西欧科学の導入の影響から、下火となっていく。
儒学では、孔子孟子の唱えた倫理を学び、四書五経の経典の研究によって「仁」の実現を行う。日本では、自己の倫理的な鍛錬としての儒教や政治色の強い国家の統治としての儒教、武士や商人の倫理規範など多岐に発展していく。

目次

儒学の発展

5世紀ごろ 阿直岐、王仁が儒教を伝えたとされる。
1130 朱子(朱熹)が生まれる。
1587 豊臣秀吉、宣教師追放令を発令する。
1593 徳川家康、藤原惺窩の『貞観政要』の講義を聞く。
1603 徳川家康、征夷大将軍となる。
1605 林羅山、家康に謁見する。
1632 林羅山、上野忍岡に私塾を建設する(後の昌平坂学問所となる)。
1649 中江藤樹の『翁問答』が刊行される。
1671 山崎闇斎、神道の秘伝を受ける。
1672 熊沢蕃山の『集義和書』(しゅうぎわしょ)が刊行される。

4-5世紀、儒教の伝来

儒教は、4-5世紀頃、中国大陸や朝鮮半島から日本に伝来した。聖徳太子十七条憲法で「和を以て貴しとなす」と説き、儒教の影響が見られる。日本古代の儒教は漢学として貴族や僧侶によって親しまれた。中世には、中国に学んだ五山の禅僧たちによって、中国において学問的に研究された宋学(朱子学)が受容され始めた。

朱子学

中世には宋学(朱子学)が伝わったが、本格的に定着したのは江戸時代に入ってから、徳川家康による儒学の奨励や藤原惺窩による宋学の提唱によって急速に広まった。江戸時代の思想の基盤となる。中国や朝鮮のように科举とともに官僚制の思想基盤とならず、さまざまな思想合流することによって受容されることに日本の儒教の特色がある。

キリスト教と徳川家康

戦国時代の混乱において、キリスト教が流入し、無視できないほど日本国内で精神的主導権をにぎり始めた。特に織田信長の晩年から豊臣秀吉の時代の初期に顕著になったが、それに合わせてメキシコやペル—でヨーロッパ人による侵略と植民地化が日本に伝わると、徳川幕府はキリスト教の広まりを抑える必要がでてきた。そこで徳川家康は儒教の学者を起用し、儒教をもって武士階級の精神的な柱とし、キリスト教に対応した。
徳川家康がはじめて藤原惺窩を招いて『貞観政要』の講義を問いたのは、豊臣秀吉による宣教師追放令の発令から6年後の1593年、51歳の時であった。
豊臣秀吉が朝鮮出兵を、徳川家康は冷静に傍観しつつ、安定した政治の運営のために以上のことを考えていたと思われる。徳川家康は、1599年、57歳になると、儒教の書籍の刊行を始め、学問の奨励をもって安定した統治を始めた。

林羅山や藤原惺窩

近世初期において、儒教に大きな影響を与えた藤原惺窩林羅山は、朱子学における大極を天と重ねてとらえた。理と気の太極からの流出過程は、日月の運行や四季の循環と同一視され、天道と呼ばれる。
世俗世界は、天によって覆われている世界、つまり天下としてとらえられる。天下のうちには、世俗世界とは質を異にする原郷世界や辺境世界のような世界は存立していない。天理は、日月の運行や四季の循環などの天地自然を貫いているが、同じように君臣・父子・長幼・夫婦・朋友や士農工商などの世俗世界を構成している諸関係をも貫いている。尊卑・上下・男女・老若などの世俗世界のあるべき秩序は、、天理によって基礎づけられ、あるべき秩序からの逸脱や背反は、気の過不足や濁りであるとされた。

山崎闇斎

近世初期の儒者のほとんどは、朱子学をベースとした実践的性格の強い儒学を学んだが、その後、山崎闇斎によって本格的に朱子学が広まった。朱子学が本格的に理解され受容され始めた。山崎闇斎の学風は朱子(朱熹)ら朝鮮王朝の李退渓の系譜を引くもので、価値的観点の強い義理の学であり、その弟子、浅見絅斎、佐藤直方を通じて、崎門学(闇斎学)派という朱子学の一派が形成され、その学統は今日に及んでいる。

貝原益軒

貝原益軒は、朱子学から独自の思想を形成した。彼は歴史、教育、生物、鉱物などを研究し、実証主義的方法を唱え、日本において科字的思考の基礎を作ることになる。

山鹿素行

山鹿素行は古学を提唱し、武士道に儒教を取り組むことで、独自の士道を確立した。山鹿素行によって農民や町人、商人の倫理的規範として武士像を作り上げた。

町人の思想 中江藤樹、伊藤仁斎、石田梅岩

町人が社会的に台頭して力を持ち始めると、儒教は、身分を超えてはすべ ての人間が等しく守るべき人の道の教えであるという思想が生まれる。中江藤樹伊藤仁斎石田梅岩の石門心学のように商人の道徳なり、この思想は百姓のあいだにも広まった。現代の経営倫理につながる。

荻生徂徠

荻生徂徠は政治について考察する学問としての儒学を主張した。荻生徂徠に至り、儒教は心情的あるいは実践・功利主義的な性格を持つにいたった。

陽明学

江戸時代後期には政治的な実践が必要であった武士階級を中心に陽明学がおこる朱子学と併せて学ばれた。ここで儒教は兵学が結びつき、日本独自の儒教が生まれる。

儒教の衰退

儒教は明治以降、近代西洋思想が広まるにつれ、衰退していくが、日本の文化や思想としていまもなお残っているといえる。

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