伊藤仁斎|古義学,仁愛と誠,愛は実体のある心情から発する

伊藤仁斎 いとうじんさい

伊藤仁斎(いとうじんさい 1627〜1705〉は寛永4年7月20日(1627年8月30日)から宝永2年3月12日(1705年4月5日)にかけて活動した、江戸時代前期の儒学者で、古義学派の祖である。主著は『語孟字義』『論語古義』『童子問』。京都堀川の商家の長男として生まれ、少年時代から儒学に親しんだ。さまざまな学問的な葛藤に悩まされるが、孔子の『論語』や孟子の『孟子』の精読を行う、古義学を提唱した。伊藤仁斎は朱子学を学んだ時期もあったが、理論に偏向しがちだと退け、庶民が親しみ、様々な身分の人々が共感できる儒学のあり方を求めた。普段日用に役立つ点から儒学そのものをとらえ直そうとした。より実用的で実際的なものを目指したのである。そのためには、『論語』、『孟子』を学ぶことにより孔子孟子の真の精神を理解することから始める。孟子の四端説は、朱子は「端は緒」と注釈しているが、仁斎は「端は本なり」と解釈して、四端を人間が生まれながらにもっている心として理解し、これが拡充すれば、仁・義・礼・智の四徳になるとした。彼により、原典の厳密な文献研究方法が確立し、日本儒学の学問的精度が高められた。

伊藤仁斎の生涯

伊藤仁斎は江戸時代前期の儒学者で、古義学派の祖である。京都堀川の材木商の子に生まれ、父母ともに商家であった。幼い頃から学問に関心をもち、漢文を習い、非凡な詩を作って周りを驚かした。わずか11歳で『大学』を学び、儒学者をめざすことになる。家族は家業を継ぐか、もしくは医者になることを進められたが、向学心が強く、弟に家を譲り、自身は学問に専念した。最初は、林羅山の敬の思想に心酔して朱子学を学ぶが、しだいに疑問をもちはじめ、陽明学や老荘思想へと関心を広げていった。しかし、自己のめざすものを見いだすことができず、精神的な疲弊に陥り、苦悩の日々を送った。33歳の時、朱子学が説く「敬」ではなく、『論語』にある「仁」に信念を持ち、『論語』が「最上至極 宇宙第一」とのべ、自身の学問の軸においた。そして、『論語』を正確に読み取ることを重視する、古義学を提唱した。35歳の時、京都の堀川に私塾古義堂を開き、30余年間にわたり民衆に孔子孟子の精神を説きつづけ、多数の門弟を育て、79歳で死去した。以後、彼の学問は息子の東涯に引き継がれ、古義学派(堀川学派)として発展していった。仁斎の学者としての名声は全国に広く知られ、各地から数千人の門人が集まったと伝えられる。

略年

1627 京都堀川に材木商の子として生まれる。
1641 孔孟の儒学を学ぶことを志す。
1662 京都に私塾(古義堂)を開く。
1683 『論語古義』『孟子古義』などが完成。
1691 『童子問』が完成。
1705 死去。

古義学の提唱と反朱子学

伊藤仁斎が提唱した「古義学」の本質は、宋代以降の解釈によって歪められる前の、孔子や孟子の本来の言葉を正確に把握することにある。彼は、朱子学が重視した「理」という抽象的概念を、生きた人間の感情や行動を縛る死んだ理屈であると批判した。これに対し、伊藤仁斎は宇宙と人間を絶え間なく動き続ける「一元気」の現れとして捉え、静的な「理」よりも動的な「気」の優位性を説いた。この哲学的転換により、道徳は内面的な自己修養に完結するものではなく、他者との具体的な関わり合いの中にこそ存在すると再定義されたのである。彼は『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称賛し、生涯をかけてその真意を追究し続けた。

古義学

朱子学は宋代の朱子が大成した学問で江戸幕府は朱子学を官学した。朱子学は儒教の思想を汲むものであったが、伊藤仁斎は、朱子学が儒教の古典の本来の意味と差異があることを指摘し、孔子孟子の思想を学ぶものであるとしての古義学を唱えた。
したがって、孔子の言行録である『論語』と孟子の作である『孟子』の精読が重視される。

古義

古義とは、「当時の中国で使われていた、元来の意味を正確に読み取ること」を意味する。古義学の方法は、後世の注釈に一切かかわらず、原典を精読し、次に孔子孟子の人物像や思想を総合的に理解し、さらに文体などを検証して、語義や意味内容を明らかにしていく手法をとる。文献を正確に読み取ることによって、孔子孟子の精神のありのままを知り、学ぶことができる。

仁と誠の倫理観

伊藤仁斎の思想における核心的な概念は「仁」と「誠」である。彼は、仁とは単なる内面的な慈しみではなく、他者に対して積極的に働きかける「愛」の動的な発露であるとした。また、「誠」については、自己を偽らず、真実を尽くすことこそが人間としての誠実さの根源であると説いた。朱子学が求めた聖人君子のような完璧な人格を目指す非現実的な修養法を否定し、市井の生活の中で「誠」を尽くし、隣人を愛する「仁」を実践することの重要性を強調した点は、当時の町人文化の台頭とも呼応し、多くの人々の共感を呼ぶこととなった。伊藤仁斎にとっての学問とは、知識の蓄積ではなく、より良き人間として生きるための道徳的実践そのものであった。

古義堂の教育的特色

古義堂は、江戸時代を通じて日本最大級の私塾として栄えた。伊藤仁斎は教育において、画一的な価値観を押し付けるのではなく、各人の天賦の才能を伸ばすことを尊重した。塾生は『大学』や『中庸』、そして『孟子』などの古典を独自の注釈書を用いて徹底的に学び、議論を交わした。古義堂の門風は自由かつ活発であり、これが京都という文化圏において、独自の批判精神を養う土壌となった。伊藤仁斎の没後は、長男の伊藤東涯(いとうとうがい)が塾を継承し、その学風は幕末に至るまで長く存続した。以下は、伊藤仁斎が教育において重視した主要な徳目である。

  • 忠信(ちゅうしん):誠実であり、自分を欺かないこと
  • 修身(しゅうしん):日々の行いを正し、自己を磨くこと
  • 好学(こうがく):単なる知識欲ではなく、道を求める心を保つこと
  • 実修(じっしゅう):学んだことを具体的な行動に移すこと

「仁」と「愛」

孔子が示した「仁」を、伊藤仁斎は「愛」であると理解した。そして、「愛」が実現されるには、日常生活で接する身近な一人ひとりに対して偽りのない純粋な心である「誠」をもつことが必要だとした。
朱子学では、「仁」は生まれつき備わった心の徳で、「愛の理」であるされた。よって、孔子の「克己復礼」は、天理の節文である「礼」に返るのが「仁」であるとし、私欲を克服することで得られるものだとした。伊藤仁斎はこれを批判し、「仁」の原型は、私を滅して他人に尽くすことにあるとした。

仁愛

仁は、徳のうちでも偉大なものである。しかしこれを一語によっていいつくそうとすれば、愛そのものだ。それは、君臣関係においては義といわれ、父子では親といい、夫婦では別(けじめ)といい、兄弟では叙(順序)といい、盟友では信(誠実)といわれる。みな愛から発したものである。思うに、愛は実体のある心情から発するものである。

君子にとっては慈愛の徳よりも偉大な者はなく、残忍酷薄の心よりやましいものはない。孔子が仁を徳の始めとするのは、このためである。これが、仁が聖なる道徳の教えの第一字であるわけである。

「誠」

伊藤仁斎は、「仁」である「愛」は、「誠」の徳によって成り立つ。この「誠」とは、古代日本人が大切にしていた清き明き心(清明心)に通じる精神である。心に嘘や偽りのない、「真実無偽」のあり方である。
伊藤仁斎は、「忠信」と「忠恕」の実践によって「誠」が実施される。人々は互いに「誠」をつくし、互いに愛し、自ら進んで人を愛すれば、人は自分も愛するそうすれば、相愛し相親しむ。

忠信

忠信とは、「誠」を得るために、自分を偽らないこと(忠)とともに他者を欺かないこと(信)を実践すること。

忠恕

忠恕とは、「誠」を得るために、他者の心情を自分のこととして理解すること(忠恕)の実践のこと。

主要著作と解説

伊藤仁斎は、その長い生涯の中で多くの著作を残し、自身の思想を体系化した。最も著名な作品は、朱子学の用語概念を古義学の立場から定義し直した『語孟字義(ごもうじぎ)』である。この著作は、単なる辞書的な役割を超え、朱子学の形而上学を徹底的に解体する論理的な武器となった。また、『論語古義』や『孟子古義』といった注釈書は、一字一句を厳密に吟味する文献学的アプローチの先駆けとなり、その後の日本の古典研究に多大な影響を与えた。伊藤仁斎の著作は、平易ながらも力強い文体で書かれており、学問が専門家の独占物ではなく、広く一般社会に資するべきものであるという彼の信念が反映されている。

『語孟字義からの引用』

誠は、実なり。一毫の虚仮無く、一毫の偽飾無き、まさに是れ誠。
朱子の曰く「真実妄無きこれを誠と謂う」。その説当れり。
しかれどもおよそ文字必ず反対有り。その対を得るときは、すなわち意義おのずから明らかなり。
誠の字 偽の字と対す。真実無偽をもってこれを解するの最も力を省くとするに若かず。(語孟字義)

学説の比較:朱子学と古義学

伊藤仁斎の思想的立ち位置を理解するためには、当時の官学であった朱子学との対比が不可欠である。彼は、朱子学が宇宙の真理を不動の「理」に求めたのに対し、世界は常に変化し生成発展するプロセスであると考えた。この動的世界観こそが、彼の楽観的かつ活力に満ちた倫理学の基礎となっている。以下の表は、両者の主要な相違点をまとめたものである。

比較項目 朱子学(宋学) 古義学(伊藤仁斎
究極の原理 理(理気二元論) 一元気(一元論的気論)
重視する古典 『大学』・『中庸』 『論語』・『孟子』
修養の方法 居敬窮理(静座・内省) 誠・仁の実践(動的な愛)
聖人観 欲望を去った完璧な存在 過ちを犯しながらも誠を尽くす人

人の道(五倫五常の実践)

五倫とは、孟子が説いた人間が日常において従うべき5つの道(「父子の親」、「君臣の義」「夫婦の別」、「兄弟の序」、「朋友の信」)であり、五常とは、儒教における個人の基本的な5つの徳「仁・義・礼・智・信」である。伊藤仁斎は、この五倫五常はすべて「愛」から発したものであり、そうでないものは偽物だとし、愛がなければ、五倫五常も単なる偽善となると説いた。

後世への影響と歴史的意義

伊藤仁斎の影響力は、単に儒教の枠内に留まらなかった。彼の原典批判の手法や、既存の権威を疑い自律的に真理を追究する姿勢は、後の国学の形成や実学の発展に間接的な影響を与えたとされる。特に、江戸中期に登場した荻生徂徠は、伊藤仁斎の古学を批判的に継承しつつ、政治・制度の面へと学問を拡張させた。徂徠が仁斎を「京都の古学」として尊重しつつも、自らの「古文辞学」を確立しようとした経緯は、日本思想史における重要な転換点である。伊藤仁斎が確立した「日常性の中の道徳」という視点は、日本人の精神構造の深層に根ざす合理主義や人間中心主義の先駆けとして、現代においても再評価されている。彼の墓所は京都市北区の光悦寺にあり、今もなお多くの学徒が訪れる聖地となっている。

伊藤東涯による継承

伊藤仁斎の死後、家塾古義堂はその長男である伊藤東涯によって引き継がれた。東涯は父の独創的な思想を整理・補完し、文献学的により精密な体系へと発展させた。東涯の温厚で誠実な人格と広範な博識は、古義堂の評価をさらに高め、全国から塾生が集まる伝統を確固たるものにした。仁斎が切り拓いた革新的な思想は、東涯という優れた後継者を得たことで、一過性の流行に終わることなく、江戸時代を通じて最も信頼される学派の一つとして存続することに成功したのである。父子が築き上げたこの知の系譜は、京都の町衆文化の知的誇りとして今日まで語り継がれている。

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