孟子|性善説を説いた諸子百家

孟子

孟子(BC372? ~ BC289)は戦国初期、前370年前後に魯に隣接する小国の鄒(すう)に生まれた。諸子百家の一人。若い頃の孟子孔子の孫である子思の門人に指南を受けた。やがて学者としての名声も高くなり、多くの弟子を抱えて鄒に楽団を形成したと言われる。前319年、孟子は魏の恵王の招きに応じて、魏の赴いたが、恵王は翌年に死去、かわって即位した襄王に失望し、すぐに退いた。その後、当方の強国の斉に赴き、国政の最高顧問につくが、前315年、斉の北にある燕で王位継承をめぐる内紛が勃発、孟子の勧めにより軍事介入し、成功をおさめた。しかし、占領の継続を巡って孟子と宣王が衝突、結果、宣王が孟子の撤退の忠告を押し切り占領・併合を継続するが、占領に対する抵抗運動、大国の牽制のために惨めな失敗に終わった。これをきっかけに一時宋に滞在したのち、鄒に戻る。まもなく引退を決意し、門人たちと、『詩経』、『書経』の校訂や『孟子』七篇の編集に専念する。

孟子の略歴

前372 魯の隣国部で生誕
前351 魯で子思(孔子の孫)の門人に学ぶ。
前320 梁の恵王に仁義を説き、政治の道に進む。
前319 梁の恵王が死去する。
前318 斉の宣王の信任により、国政の最高顧問となる。
前315 母親が死去する。
前314 宣王と不和になり、斉を去る。
前305 部に戻り弟子の教育に当たる。
前289 死去(この頃死去したと言われているが、詳細は不明である。)

孟子と荀子の比較

孟子と荀子の比較

荀子

王道政治

王道政治とは、孔子の徳治主義を受け継いで提唱した政治思想のことで、仁義に基づく政治を説き、武力的な政治である覇道(権力・権謀による政治)を否定した。孟子は「恒産なくして恒心なし」と述べ、理想的な政治とは、民衆の平和を思い、生命・身体を保全し、安全な生活を守ることであった。そうした徳のある政治は諸外国の民からも厚い支持を得ることができ、水が低地めがけて流れ込むように王の元に集めると説いた。当時、当たり前だった好戦的で殺人を楽しむ君主や侵略戦争による殺戮による統治を強く否定し、王が王たらしめるのは、「民の生活」を脅かさないことだと説く。

性善説

孟子の性善説は、荀子の性悪説に対極をなし、天が与えた人間の本性は善であると規定した。人間の本性は、天から授かった天命であり、すべての人に備わる善き道徳性である。人間の本姓は、善なる方向に固定されており、時に不善な行為をしてしまうのは、善なる方向が、時に妨げられ、勢いに抗うことができず、一時的に本性と違う行為をしてしまっただけである、と説いた。なお、このような性善説の中で生得的な善の源である四端を育成することで4つの徳は完成する。従って善なる性を損なわずに育て、開化させ、発展させることが為政者や教育者に求められることである。

四徳

四徳

四端

孟子は、すべての人が四端の心をもっているとした。四端とは惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心であるが、それぞれの本性を拡充すると、仁・義・礼・智の4徳が実現する。四徳に加えたものを五条といい、前漢の儒学者である董仲舒(とうちゅうじょ)が定着させた。

惻隠の心は、仁の端なり(他人の不幸をかわいそうとおもって見過ごせない同情心)
羞悪の心は、義の端なり(自分や他者の悪を恥憎む心)
辞譲の心は、礼の端なり(他人を尊重する態度や振る舞い、礼儀作法)
是非の心は、智の端なり(善、悪、正、不正を見分ける心)

人皆、人に忍びざるの心ありという所以(ゆえん)の者は、今、人にわかに孺子の将に井(せい)に人らんとするを見れば、皆怵惕・惻隠の心あり。
交わりを孺子の父母に内れんとする所以にも非ず、誉れを郷党・朋友に要むる所以にも非ず、その声を悪みて然るにも非ざるなり。
是に由りてこれを観れば、
惻隠の心無きは、人に非ざるなり。
羞悪の心無きは、人に非ざるなり。
辞譲の心無きは、人に非ざるなり。
是非の心無きは,人に非ざるなり。
側隠の心は、仁の端なり。
羞悪の心は、義の端なり。
辞譲の心は、礼の端なり。
是非の心は、皆の端なり。
人の是の四端あるは、猶その四体あるがごときなり。

人間はだれでも、他人の悲しみに同情する心をもっているというわけは、今かりに、子供が井戸に落ちかけているのを見かけたら、人は誰でも驚き慌てて、いたたまれない環状になる。子供の父母に懇意になろうという底意があるわけではない。地方団体や仲間で、人命救助の名誉と評判を得たいからではない。これを見すごしたら、無情な人情だという悪名をたてられはしないかと思うからでもない。このことから考えてみると。
いたたまれない感情をもたぬ者は、人間ではない。
羞恥の感情をもたぬ者も、人間ではない。
謙遜の感情をもたぬ者も、人間ではない。
善いことを善いとし、悪いことを悪いとする是非の感情をもたぬ者も、人間ではない。
このいたたまれない感情は、仁の端緒である。
羞恥の感情は、義の端緒である。
謙遜の感情は、礼の端緒である。
是非の感情は、智の端緒である。
人がこういう四つの端緒をそなえていることは、人間が四肢を備えているようなものである。

浩然の気

浩然の気とは、道徳にかなった行いをしようとした時に生じる正しい、道徳的勇気。ささいなことにこだわらず、人生どのような局面に望んでも動揺しない「大丈夫」がもつ気概。自己の道徳的な人格を確信し、道徳を実践しようとする気概。孟子は、善の完成のために、この気を養うことの必要性を強調し、この気を養い、道徳的な勇気をもつ大丈夫を理想の人間像とした。

その気たるや、至大至剛、直を以て養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞つ。
その気たるや、義と道とに配す。
是なければ餒うるなり。
是れ義に集いて生ずる所の者にして、義襲いてこれを取れるに非ざるなり。 行い心に慊ざるあれば、則ち餒う。

浩然の気というのは、何物よりも大きく、どこまでもひろがり、何物よりも強く、ちっともたわみかがむことなく、まっすぐに育ててじゃまをしないと、天地の間にいっぱいになる。また、この気というのは、義と道とから離れることはできない。もし分離すると飢えて気は死んでしまう。
浩然の気は、義を行なったのが積み重なって発生したものであり、義が浩然の気を突発的に取り込んだのではないのである。
人間の行ないが義にかなわず、心を満足させないと、浩然の気が飢えて消えてしまう。

易姓革命

易姓革命とは、中国における伝統的な王朝交替の思想である。古代中国の天の思想では,天の命を果たすことができる人物を天子にするが、悪行のため民意を失ってしまった暴君は天命により治者の地位から追放され、姓を異にする別の王朝と交代する。孟子は、仁政を施して民衆の生活を保全し、正義を持って悪をうつ王こそが王の王たるゆえんであるとし、もし王が仁を破壊し、義を退ける残虐たる王が出現したとき、決して彼を王とは認てはいけないとした。そのときにたとえ暴力や殺戮をともなった軍事力によるものだとしても、別の王朝が既存の王を破る必要があり、新たなる天下の王として君臨すべきであるとした。孟子は伝統的な王朝交替の思想を革命思想まで前進させた。

斉の問いて曰く、湯、桀を放ち、武王、紂て伐(う)てること、諸ありや。
孟子対えて曰く、伝にこれあり。
曰く、臣にしてその君を弑す、可ならんか。
曰く、仁を賊なう者これを賊と謂い、控を賊なう者これを残と謂う。
残賊の人は、これを一夫と謂う。一夫紂を謀するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり。

斉の宣王がたずねられた。
の湯王は、夏王朝の桀王を放逐して天下を取り、周の武王は、殷王朝の紂王を討伐して天下を取ったという。それは歴史事実なのか」
孟先生がこたえられた。
「そういうことが語り伝えられています」
「それなら臣下として君主を殺したてまつることは、是認されているのか」
「仁の徳を破壊する人を賊といいますし、正義を破壊する人を残と申します。
残・賊の罪を犯した人はもはや君主ではなく、一夫つまり、単なるひとりの民となってしまいます。
私は武王が一夫の射を討ち殺したとは聞いていますが、君主である紂を殺したてまつったとは聞いておりません」

兼愛

墨子孔子の孝悌を別愛と批判し、平等の兼愛を提唱したことに対し、孟子は兼愛はむしろ 社会秩序の源である五倫を混乱させ、世の乱れを生むとして退けることを提唱した。

五常

孟子の四端説で説かれる「仁・義・礼・智」の四徳に「信」を加えたもの。前漢の儒学者である董仲舒は、これを五常の道とし定着させた。

五倫

五輪とは社会的な人間関係のベースにあるもので、5つの基礎的な人間関係と5つの徳目のことをいう。なお、「五倫」と「五常」(仁・義・礼・智・信)を合わせた「五倫五常」が儒教思想を支える徳である。
親(父子の間の親愛)
義(君臣の間の道義、正しさ)
別(夫婦の間の区別、役割)
序(長幼の間の順序)
信(盟友の間の信頼)

人の道有るや、飽食煖衣,逸居して教えらるるなければ、則ち禽獸に近し。
聖人有これを憂え、契をして司徒たらしめ、教うるに人倫を以てす。 父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友あり。

いったい、人間の人間たる所以はどこにあるか。
腹いっぱいに食べ、暖かい衣類を着て、快適な家に住んでいても、教育がなければ鳥や獣とかわらないではないか。
堯帝はまたこれを憂慮して契を司徒という役に任命し、人間の倫理を教えさせた。
父子の間には親愛があり、君臣の間には道義があり、夫婦の間には男女の差別があり、長幼の間には順序があり、朋友の間には信義があるようになった。

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