殷
殷は、前16世紀頃~前11世紀に栄えた中国最古の王朝である。伝説では湯王が夏を滅ぼして王朝を建て、のち紂王のときに周の武王に滅ぼされたとされる。黄河下流域の黒陶文化をもつ邑が点在していたが、しだいに大小の大邑を形成し、対立抗争をへて国家へと成長した。殷はその中でも大規模な大邑で、連合国家(邑制国家)の盟主となって成立した。
商
商は、殷の別名、あるいは殷という都市国家連合の中心となった強力な大邑である。
鄭州城
鄭州城は、1950年に発見された都城で、殷代中期の都と考えられている。
殷墟の発掘
殷墟は、河南省安陽市小屯村を中心とする殷王朝後期の都の遺跡である。1899年、河南省安陽市小屯で、表面に象形文字を刻んだ多数の亀甲や獣骨が発見され(甲骨文字)、この地が『史記』に記されている殷墟(殷王朝最後の都)、商邑の遺跡であることがわかった。20世紀になって本格的な発掘が行われ、宮殿跡や半地下式住居跡が多数発見された。宮殿跡の周辺から人畜を殉葬した陵墓や住居跡が発見され、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(こやすがい)・鼈甲なども多数出土した。
甲骨文字
甲骨文字は、殷墟から出土した亀甲・獣骨に刻まれた文字。おもに占いの結果を記しているので、卜辞とも呼ばれる。占いの方法は、亀の腹甲、牛の肩甲骨の裏に穴をあけ、そこを焼いて表麺にできる割れ目によって吉凶を占い、占いの内容と判断の語を刻んだ。その内容は、多くは祭祀、軍事、天文、狩猟、穀物の農凶などに関するものであった。象形文字が多く、合成文字も多くあり、漢字に近い形となっている。
神権政治
殷部族の長である王が占いの結果を絶対的な神意とし、政治・軍事・経済から王の日常生活にいたるすべてのことを、占いに現れた祖先神の神意にもとづいて決定する、いわゆる神権政治(祭政一致の政治)を行った。
天帝
天帝とは、天をつかさどる神で上帝ともいう。当時の人々の考えた神は宇宙をつかさどる神であり、周代には抽象的な天の思想の中心となり、戦国期には人間的性格が否定され、宇宙の最高原理とされた。
王位
王位の相続は、最初は兄弟相続が行われていたが、しだいに父子相続に代わり、王は宗教的・世俗的権威を世襲して強大な権力を一身に集中するようになった。
連合体
殷の国家形態は、小さな集落である邑の連合体で、各邑にはそれぞれ首長がおり、殷王と各邑の首長との間に服従関係が結ばれることで、ゆるやかな連合体を形成していた。また、殷に服属した邑のなかでも強力なものは、他の弱小な邑を服属させている場合もあった。農地は各邑の周囲に広がっており、人民はそれぞれの邑の首長の統制に服していた。殷王は、邑の首長を通じて、これらの邑を間接的な支配・統制の下においていた。
奴隷制
殷代は奴隷制を採用した。多数の戦争捕虜を家内奴隷として雑用に用い、農耕にも主たる労働力として使役した。
経済
殷代には、牧畜も行われていたが農業が基本産業で、木・石・貝製などの農具を使用して、きび・栗・麦などを生産した。また王墓などの副葬品には奇怪な動物文様をもつみごとな青銅器や象牙細工・白陶などが多く含まれている。これらは祭祀用の道具であったらしいが、特に青銅器は次の周時代にも引き続き作られて、特色ある中国青銅器文明を形成した。こうした奇怪な文様や、駐墟の地下などから発見された中央アジアの玉類、南方産の子安貝(装飾品)・象牙などの存在は、殷が遠隔地と交易していたこと、特に南方太平洋沿岸地方と密接な交渉をもっていたことを示すものとして注目される。
漢民族
現在の中国は多民族国家でそれら多数の民族はすべて中国の民族が漢民族である。殷・周以来黄河流域に住み、東アジアで最も早く文明を開化させた民族がこの漢民族である。前漢の歴史家司馬遷の記した『歴記』は中国の歴史を黄帝から始めている。
殷の滅亡
殷王朝の滅亡前1050年ごろ、殷王朝は紂王のとき、東方部族の叛乱に苦しみ、西方に興った周族の攻撃を受けて滅亡した。伝説によると、紂王は人民の苦しみをよそに酒池肉林の宴にふけり、政治を忘れたために国を滅ぼしたといわれている。
殷周革命
殷周革命とは、殷から周への政権移行をいう。殷王朝の滅亡前1050年ごろ、殷王朝は紂王のとき、東方部族の叛乱に苦しみ、西方に興った周の攻撃を受けて滅亡した。殷の紂王の悪政に、大帝の命を受けた周の武王に討たれ、周王朝に移行したとされ、放伐形式での革命として位置づけられている。