山鹿素行|古学,武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり

山鹿素行

山鹿素行は江戸時代前期の会津若松の儒学者・兵学者。武士道を体系化したことで知られる。主著は『聖教要録』『山鹿五類』。朱子学を学びながらも、甲州流軍学をおさめ、歌道・神道・仏教も学び博識であった。おもに江戸で儒学・兵学を教えたが、この間、実用の学を主張して観念的な朱子学を批判し、「漢唐宋明の学者」の解釈を排し、直接「周公孔子の道」を学ぶ古学の立場を主張した。

目次

山鹿素行の略年

1622 会津に生まれる。
1630 林羅山へ入門する。
1636 甲州流兵学を学ぶ。
1637 剣術免許を受ける。
1640 『論語』『孟子』講義。
1642 浄智と結婚する。
1657 江戸大火(明暦の大火)。
1660 浅野家を致仕。
1665 『山鹿語類』『聖教要録』完成
1666 『聖教要録』で朱子学を批判したため赤穂へ配流される。
1675 赦免される。
1680 浅野長矩が内匠頭(たくみのかみ)となる。
1685 没す。

山鹿素行の生涯

山鹿素行は、会津若松(福島県)に生まれる。5歳の時に父が仕えていた蒲生家が幕府に領地を召し上げられたため、浪人となり、江戸に移り住んだ。江戸で父は出家して医者となって生計を立て、素行は儒学の書を読んで8歳までに四書五経などを読破したと伝えられている。
8歳の時、林羅山に入門し、本格的に朱子学に打ち込むとともに、歌学、国文学、神道、老荘思想などを学び、14歳の時には甲州流兵学(軍学)を修め、20歳で早くも印可を得て、山鹿流兵宇(軍学)を創始し、兵学者、儒学者として一家をなした。
30歳の時、播州赤穂藩(兵庫県赤穂市)に仕えたが、38歳で致仕し、江戸で著述や弟子の教育に努めた。早くから兵学者として知られ、41歳の時、朱子学を批判して古学を提唱する。
44歳の時、朱子学批判が幕政そのものへの批判につながるとして、赤穂に蟄居させられるが、塾を開き、藩士たちに儒学や軍学を教えた。53歳の時、赦免されて江戸に戻り、抗議と著述の生活を送った。

山鹿素行の思想

山鹿素行の学問的目的は武士の道義的基盤の確立であり、朱子学の唱える窮理が日常の倫理から遊離する可能性があるとして批判し、より実践的現実的な思想を求めた。そこで朱子学の源流である孔子や孔子が理想とした周公旦の教えに帰り、唐・宋・明代の注釈を排した古典研究を重視した。また、武士道を体系化し、戦争のない太平の世における武士は、戦闘者ではなく為政者であり、農工商三民の指導者として倫理的自覚をもって天下の道を開く存在であることを求めた。従って武士は自らも道を修めるべきであり、他者の規範とならなければならない。武士が三民の上に立つのは道徳性に由来する。

仏教の受容

山鹿素行は、日本は仏教などの外来思想を取り入れ、見事に取り込んでいるとし、それを讃えた。

朱子学批判

後世の儒者たちは、万物は一つの理によって存在しているとして、万物を、その差異を無視して混合してしまったが、これはあらゆる存在を平等とみなす異端(仏教)の説とおなじである。山鹿素行は、「万物は一つの理によって存在している」という「居敬窮理」の考え方に基づく朱子学が、ともすれば抽象的な理論と化してしまい、日常の倫理を離れてしまった。周公旦や孔子という「聖人」の教えに基づいて、現実に向き合って、その「理」を明らかにすべきだとした。

『聖教要録』

『聖教要録』は44歳の時に刊行した。内容は朱子学批判であったため、流罪となり、赤穂藩に配流された。朱子学は抽象的であり、実践的ではないとして退け、孔子の思想や孔子が理想とした周公旦の教えを尊重するべきであるとして、実践的で現実的な思想を求め、古学(聖学)を主張した。以降、この書物は古学の出発点となる。

武士道

当時の「武士道」は、戦乱の世における生き方など、武家の家訓のような形で伝えられるものであった。山鹿素行は、天下国家を意識した支配階屑である武士の心得としての「士道」を説き、それまでの「武士道」の考え方を厳しく批判した。戦乱が収まった後の江戸時代における武士は、武士の職分をよく自覚して三民のリーダーとなるべきだと説いた。

武士の職分

山鹿素行によると、武士の職分は、主人には「奉公の忠」を尽くし、同僚には「信」を厚くし、独りをつつしんで「善」をもっぱらとすることにあるとした。武士は倫理的規範が確立し、武備が整えば、農・工・商の三民は、武士を師として尊敬し、その教えに従うようになる。そして、物事の順序を知ることができるようになる、とした。

およそ士の職というものは、主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義をもっぱらとするにある。そして、どうしても自分の身から離れないものとして、父子・兄弟・夫婦の間の交わりがある。これもまた、すべての人が持たなければならない人間関係であるけれども、農・工・商はその職業にいそがしくて、いつもその道をつくすというわけにいかない。士はこれらの業をさしおいて、もっぱらこの道につとめ、農-工-商の三民が、人のなすべきことをすこしでもみだすならば、それをすみやかに罰し、それによって天の道が正しく行なわれる備えをなすものである。だから士には、文武の徳知がなければならない。それは、外形としては剣術、弓術、馬術などを十分にこなすことであり、内面においては、君臣・朋友、父子、兄弟、夫婦の道をつとめることであって、このように文道がその内心において充実し、その外形においては武備がととのうようになれば、三民はおのずから士を師とするようになり、士を尊び、その教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるのである。

天命

山鹿素行は、人間にとって最も重大なものは「命」である。命を大事に思うことは、貴賤・上下・長幼を問わず、いかなる人であっても同じだとして、命を知ることが重要だという。天命とは、人間のもって生まれた本性であり、それを知ることによって、命を大事にし、臆病になったり蛮勇に走ったりせず、正しく生きることができる。

人が命を知らなければ、心が安らかであることはできないから、安んじ楽しむこともなく、また、覚悟をきめてきっぱりと決断することもないわけである。人間にとってもっとも寛大なものは命なのである。この命を大事に思うことは、貴賤・上下・長幼を問わず、いかなる人であっても同じであり、鳥獣魚類にいたるまでその心はあるものなのだ。

天の命とは何かをよく考え、よくその事物について明らかにするならば、天命とは河かがよくわかるであろう。ここにのべてきたところから、命について正しく詳細に知らないとしたら、あるいは恐れて臆病になるばかりで不義の行ないをし、あるいは蛮勇にはやって意味もないのに死に、しかもそれを何とも思わないというようなことになってしまうのである。

『葉隠』

江戸時代中期の1716年ごろに著された。佐賀鍋島藩の山本常朝が武士としての心得についての考え方を述べ、田代陣元が筆録したもの。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。

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