バルト三国の独立
バルト三国のバルト三国の独立とは、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国が、崩壊しつつあったロシア帝国とドイツの支配から離脱し、主権国家として成立していく過程を指す概念である。第一次世界大戦末期における帝国秩序の崩壊と、被支配民族の民族自決要求の高まりが結びつき、1918年前後に相次いで独立宣言が発せられた。その後、独立戦争と国際交渉を通じて主権が承認され、戦間期には3国とも国際連盟加盟国として国際社会に参加したが、やがてソ連とドイツの勢力拡大に巻き込まれ、いったん独立を失うことになる。
バルト地域の歴史的背景
エストニア・ラトヴィア・リトアニアの各地は、中世以来、ドイツ騎士団国家やポーランド・リトアニア共和国、スウェーデンなど複数の勢力の支配を受けてきた。近世以降は北方戦争を経てロシア帝国の支配下に入り、19世紀後半にはロシア語教育の強制などロシア化政策が進められた。その一方で、啓蒙思想やロマン主義の影響を受けて各地で民族意識が高まり、固有言語の復興運動や歴史研究、民族叙情歌の収集などを通じて「国民」の形成が進んだ。こうした民族運動は、帝国が戦争と革命で揺らぐ時期に一気に政治的要求へと転化していく。
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦中、バルト沿岸地方は東部戦線の前線となり、ドイツ軍の占領を経験した。1917年のロシア革命とくに十月革命によってロシア帝国体制が崩壊すると、旧帝国周縁の諸地域では権力の空白が生まれた。ボリシェヴィキが建てたソヴィエト=ロシアは、ブレスト=リトフスク条約でドイツと講和したためバルト地域の支配を一時的に放棄し、その空白を利用して各民族代表機関が自治政府・臨時政府を組織し始めた。こうした政治状況の変化が、バルト三国の独立を具体的な政治課題として前面に押し出したのである。
各国の独立宣言と独立戦争
- エストニアでは、1918年2月に臨時政府が独立を宣言し、ドイツ敗戦後にはエストニア独立戦争を戦ってソ連軍を撃退した。1920年のタルトゥ条約によってソヴィエト=ロシアから主権を承認され、国際的にも独立国家として承認された。
- ラトヴィアでは、1918年11月に臨時政府が成立し、親独派政権やソビエト政権との内戦を経て統一政府が確立した。1920年代初頭まで続いた戦闘ののち、ラトヴィアも国際連盟への加盟を通じて主権国家としての地位を固めた。
- リトアニアは、1918年2月に独立を宣言し、旧ポーランド=リトアニア共和国の歴史を踏まえた国家構想を掲げたが、ポーランドとの領土紛争やソ連軍との戦闘に直面した。それでも1920年代には独自の農地改革などを進め、独立国家としての制度整備を行った。
戦間期のバルト三国と国際秩序
独立後のバルト三国は、いずれも議会制民主主義憲法を制定し、農地改革による自作農創出など社会改革を進めた。外交面では、ポーランドや北欧諸国との協調、ソ連との不可侵条約などを通じて安全保障を図り、ヴェルサイユ体制と国際連盟の枠組みの中で独立の維持を目指した。しかし世界恐慌と国際緊張の高まりのなかで、1930年代には各国で権威主義的政権が成立し、国内政治は不安定化していく。
ソ連への併合と再独立
1939年の独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ条約)の秘密議定書によってバルト地域はソ連の勢力圏とされ、1940年に3国はソ連軍の進駐を受けて併合された。この結果、ソ連はバルト沿岸一帯を支配し、戦後の冷戦体制においてもこの状況は継続した。だが1980年代末のペレストロイカと「歌う革命」と呼ばれる大規模な市民運動を背景に、エストニア・ラトヴィア・リトアニアはふたたび独立を主張し、1991年に主権回復を国際的に承認された。この再独立もまた、20世紀後半の民族自決の一局面として理解され、バルト三国の独立は、帝国の崩壊と国民国家形成が繰り返されるヨーロッパ近現代史を象徴する事例と位置づけられている。