冷戦|アメリカとソ連の冷たい戦争,鉄のカーテン

冷戦

冷戦とは、軍隊同士がぶつかる戦争である「熱い戦争」に対して、直接の戦争ではない冷たい戦争、という意味で用いられた。第二次世界大戦後、資本主義国に代表されるアメリカと社会主義国を代表するソ連のにらみ合いの中で使われたが、しかし、実際には、アメリカとソ連の軍事衝突は、ベトナム戦争朝鮮戦争、ドイツの東西分裂、中国と台湾の対立など世界中で「熱い戦争」が行われ、多くの血が流れた。

ケネディとウィリーブランツ

ケネディとウィリーブランツ

鉄のカーテン

第二次世界大戦は、アメリカやイギリスとともにソ連は、ドイツや日本に勝利した戦勝国側の立場で、一種の連帯感を持っていた。しかし、戦後は、ソ連はアメリカ・イギリスと異なる別の方向に進み、主導権争いが生じた。次第にソ連の影響下に入った東ヨーロッパの情報が遮断され、西ヨーロッパ、あるいはその他の国には情報が入ってこない状況になった。この状況をチャーチルは「鉄のカーテン」と述べた。

バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパおよび東ヨーロッパの歴史ある国々の首都は、すべてその向こうにある。(チャーチル)

ヤルタ会談

ヤルタ会談とは、第二次世界大戦中の1945年2月、ソ連の黒海沿いの保養地ヤルタにて行われた、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン首相の三者の会談である。ドイツ敗北の見通しがついたため、戦後のヨーロッパのあり方について意見を交わした。ヤルタ会談では、アメリカのルーズベルト大統領が、「解放ヨーロッパに関する宣言」を提案し、チャーチル、スターリンの両首脳が合意した。ドイツの占領から解放されたヨーロッパ諸国で、国民のすべてのグループを代表する暫定政権を作り、できるだけ早く自由選挙を実施して、国民を代表する政府を作ることに同意した。

ソ連の衛星国

ヤルタ会談の戦後の枠組みを、スターリンは反故し、ソ連軍がドイツ軍を追い出して占領した国々では、自由選挙を実施されることはなく、ソ連に従属した共産党政権を打ち立てた。ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアでは第二次世界大戦中、ソ連に逃げていた共産党員がソ連軍とともに帰国し、臨時の行政委員会を作って、そのまま政府に移行した。自由な選挙が行われず独裁体制が確立された。。ユーゴスラビアとアルバニアでは、共産党の主導する反ドイツ闘争の組織が、そのまま政権となった。チェコスロバキアは、それまでの長い民主主義の経験を受けて自由な選挙が実施され、共産党を含めた連立政権が成立したものの、共産党のクーデターにより、一部の閣僚を殺害、独裁政権を樹立した。さらに1948年には、ソ連がドイツの西ベルリンの封鎖に踏み切り、ベルリンは分断された。

ソ連

ソ連は、西側諸国から自国を守るため、周辺に緩衝地帯としての衛星国の多くを作っておいた。ソ連のスターリン首相は、異常な恐怖心を持ち、自分の身の回りの人間を処刑し、自分の安全だけでなく、他国に対しても疑心暗鬼を持っていた。

アメリカの「封じ込め政策」

アメリカをや西側諸国はソ連の行為に対し、怒りを抱くようになった。

ジョージ・ケナンの電報

1946年2月、モスクワのアメリカ大使館で、大使が留守の間の代理大使だったジョージ・ケナンは、アメリカ国務省に対し、ソ連の危険性を指摘する長文の電報を送った。この中でケナンは、ソ連との間で摩擦が続いていることについて、ソ連はナチスドイツのような冒険主義的な国家ではなく、強力な抵抗にあえば後退すること、軍事的ではなく政治的な膨張をねらっているので、西側が強固な意思で反撃すべきであると主張した。アメリカは戦勝国のソ連に対して協調路線をとっていたが、ジョージ・ケナンの電報をきっかけに、アメリカの外交政策は転換した。

ソ連の封じ込め

外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』1947年7月号に、Xという匿名で、「ソ連邦の行動の起源」と題し、「ソ連封じ込め」を求める論文が公表された。ジョージケナンの電報に準じた内容で、アメリカの善意では、ソ連の拡張主義を止めることはできず、ソ連に対して敵対関係を保ったまま、長期間、ソ連を封じ込め、ソ連の内部崩壊を待つという趣旨であった。

トルーマン・ドクトリン

トルーマン・ドクトリントはアメリカのルーマン大統領が出した教義(理論)で冷戦を象徴するもの。トルーマンは、1947年3月、アメリカ議会で、民主主義にもとづく生活か、少数者が多数を抑える生活かの、どちらかの選択を、すべての国民が選択しなければならない、と訴えた。そして、「武装した少数者や外部からの圧力に抵抗する自由な諸国民を援助することこそ合衆国の政策」であると提示した。トルーマン大統領は世界を自由主義(善)と共産主義(悪)の二分して、アメリカ合衆国による悪との対決という枠組みを提示した。極めて単純な構図が、アメリカ国民に受け入れられ、以降、アメリカは、共産主義運動との対決姿勢が続けられた。

東西対決

ヨーロッパを中心にした世界地図を見ると、西ヨーロッパがアメリカグループ、東ヨーロッパがソ連グループとなり、「東西冷戦」とも呼ばれる。「西側」がアメリカグループ(資本主義諸国)で、「東側」がソ連グループ(社会主義諸国)と区別された。

コミンフォルム

ソ連のスターリンは、共産主義国家の連携を強めるため、1947年、世界中の共産党の首脳を集めて「共産党・労働者党情報局」(コミンフォルム)を設立しました。「東側」の共産党幹部ばかりでなく、「西側」諸国の中の共産党の幹部も集め、同じ「社会主義」をめざす同志として、結束を強めようとした。
ソ連と東ヨーロッパ諸国の団結を固めるばかりでなく、「西側諸国の内部で、アメリカやアメリカに協力的な政権に反対する運動を盛り上げさせ、アメリカによる「封じ込め」を阻止しようと考えた。アメリカなど西側諸国は世界を赤化(社会主義にする)と受け止められ警戒心を煽るようになった。

共産主義インターナショナル

第二次世界大戦前にも、ソ連を中心に、「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)という組織が存在したことがあります。「世界各国の共産党は、モスクワに本部のある「共産主義インターナショナル」の支部であって、「世界革命」(世界中を社会主義にすること)の実現に向けて、各国共産党は、モスクワの指令に従って動くことが求められていました。「この組織は、第二次世界大戦でソ連がアメリカなどと共同で戦うようになってからは、アメリカに「敵対」しないという姿勢を示すため、解散していました。新たに結成されたコミンフォルムは、戦前のコミンテルンのような各国共産党に指令する組織ではなく情報と意見を交換する組織と説明していた。

核による平和

アメリカの原子爆弾に対し、ソ連も核開発を行い、両者とも、原子爆弾から、水爆などの核兵器の開発をすすめ、核の開発競争が加熱することとなる。

核ミサイル

初期の核兵器は、爆撃機で相手の領土深く侵入し、基地や大都市の上空で落とす必要があり、このため、核爆弾を積んだアメリカの大型爆撃機B52が、常にソ連近くの上空に待機する、という状態が続いた。その後、直接撃ち込むことができる核ミサイルが開発され、核ミサイルが大量生産された。さらに、潜水艦からも核ミサイルが発射できるようになり、永続して潜伏できる原子力潜水艦も開発された。

NATO

西側諸国のひとつひとつはソ連に比べて、巨大な軍事力を持つことはなく、西側諸国がまとまり連携する組織としてアメリカを中心にNATOが結成された。1949年、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、カナダ、デンマーク、イタリア、アイスランド、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガルの12ヵ国が参加した。1952年にギリシャとトルコ、1955年に西ドイツが加盟し、1982年、スペインも加盟して16カ国になりました。NATO加盟国は集団的自衛権を設計思想とし、加盟国に対して武力攻撃された場合、全参加国に対する攻撃とみなして、協力して反撃する、とされた。冷戦ソ連を封じ込めを目的として、アメリカは西ヨーロッパの防衛に乗り出し、西ヨーロッパの各地にアメリカ軍基地を置いて、巨大な軍事力を維持した。

ワルシャワ条約機構軍

NATOに対抗するため、1955年、ポーランドのワルシャワで、ソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの8ヵ国の代表が集まり、相互援助条約を結び、ワルシャワ条約機構軍が結成する。NATOに対抗する軍事組織であったが、この条約に加盟している国がソ連の影響下から脱出しようとする動きを示すと、軍事力圧力をかける役割を果たすよう変質していった。冷戦が終わると、ワルシャワ条約機構は解体した。

スターリン

スターリン

ベルリンの壁

1989年11月9日の深夜、ドイツのベルリンの壁が崩壊した。多くの市民がベルリンの壁を倒し、東ドイツの多くの若者が「壁」をよじのぼり、歓喜の叫びを上げた。ベルリンの壁冷戦の終了を象徴するものとなった。

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