朝鮮戦争|北朝鮮の侵攻から休戦調停まで,世界史

朝鮮戦争

日本の第二次世界大戦の敗戦をきっかけに中国を後ろ盾とする北朝鮮とアメリカを後ろ盾とする韓国との戦争が起こる。3年も戦争は続き、両者270万から360万の犠牲者を出したにもかかわらず、結局は北緯38度線を境に休戦調停になった。なお、朝鮮戦争を特需として日本は戦後復興を遂げた。

目次

日本の朝鮮半島支配

1910年韓国併合から1945年の第二次世界大戦が終わるまでの36年間、日本の統治下にあり、日本語の使用や創氏改名などの圧政を行った。日本が第二次世界大戦でやめると、朝鮮半島に駐留していた日本軍の武装を解除したため、北方からソ連軍が南下した。

アメリカの対応

ソ連軍が朝鮮半島に介入してきたため、アメリカは、軍隊を南から上陸させ、北方に進めた。アメリカは、北緯38度線を境にして、南北をそれぞれの軍隊が分割占領することをソ連に提案し、ソ連も受諾した。ここから北緯38度線が現代に至るまで残ることとなる。

アメリカソ連の対立

アメリカは、朝鮮半島に独自の独立国が成立するまでの最大5年間、アメリカ、イギリス、中国(中華民国)、ソ連の四ヵ国での統治を提案したが、ソ連はこれに反発した。交渉は難航を極め、国連において議論され、南北で総選挙を実施して、統一された政府を樹立することを決めたが、これにもソ連は反対した。

李承晩

朝鮮半島の南半分では、総選挙が実施され、選挙で選ばれた国会議員により構成された憲法制定議会は、李承晩(イ・スンマン)を大統領に選び、李大統領は、日本の敗戦から2年後の1948年8月15日、大韓民国の成立を宣言した。

金日成

朝鮮半島の北半分では、太平洋戦争中、ソ連軍の大尉だった金日成(キム・イルソン、本名キム・ソンジュ)を立て、北朝鮮にて指導的立場とし、1946年2月9日、北朝鮮臨時人民委員会が作られた。事実上の新政府となる。1946年11月には、人民委員会選挙が行われたが、選挙に立候補できたのは各選挙区にひとりで、有権者は、全員が見守る中で、この候補を支持するか支持しないかだけの投票を行われた。1948年9月9日、この自由選挙ではない、「選挙」で選ばれた「人民委員会」を母体として、朝鮮民主主義人民共和国が成立した。

越南越北

38度線で南北に分断されると、社会主義を嫌う人々は南に向かい(越南)、社会主義にあこがれる人々は北に向かいました(「越北」)。

六・二五事件

六・二五事件とは、1950年6月25日の日曜日、朝鮮戦争が始まった。南北に分裂した2年後であった。韓国語で「六二五(ユギオ)」とも呼ばれる。午前4時、北朝鮮軍は、38度線の全線で一斉に砲撃を開始し、30分後に地上部隊が38度線を越え、韓国へ侵入した

韓国の対応の遅れ

当初、韓国軍は、頻出していた国境の小競り合いのひとつと判断し、反撃態勢に遅れをとった。また、韓国軍の幹部の多くは、研修中や留学、海外視察中などで極めて手薄な状態であった。さらに直前の6月10日には軍の大規模な人事異動があり、新しい任地に着任した将校は、部隊の掌握もできていなかった。ちょうど農繁期だったので、実家が農家の兵士たちは、農作業を手伝うために週末の休暇をとっていた。

6月24日ソウルの将校クラブの開所式

朝鮮戦争が始まる前日の6月24日土曜日、ソウルの将校クラブの開所式があり、韓国軍の幹部やアメリカ軍顧問の計約100人が集まり、遅くまで酒を飲んでいました。北朝鮮の侵攻の際、非常呼集を受けた将校の中には、二日酔いの者の状態の者も少なくなかった。

北朝鮮の快進撃

北朝鮮軍は、韓国の意表を突き、ソ連軍が残した最新鋭のT3戦車を先頭に南下を続けた。韓国軍には戦車が1台もなく、韓国軍は、総崩れになり、韓国の首都ソウルは、戦争が始まってわずか3日後に北朝鮮軍が占領した。

アメリカ軍の全面介入

朝鮮戦争が始まると、アメリカのトルーマン大統領は、直ちに韓国への全面支援を打ち出し、アメリカ軍が全面介入した。当時、アメリカ軍は韓国から撤退しており、わずかな数の軍事顧問が残っていただけであった。このため、日本に駐留していたアメリカ軍が援軍として送られた。国連安全保障理事会は6月25日の午後5時(アメリカ東部時間)、北朝鮮に対して、戦争行為の即時中止と38度線への撤退を要求する決議を採択した。7月7日、国連軍の創設が決まり、国連に加盟する各国は、アメリカが任命する司令官の指揮下に部隊を派遣するように勧告が出され、最終的にはアメリカを含め16ヵ国が軍隊を朝鮮半島に派遣された。アメリカのトルーマン大統領は、国連軍司令官に、日本に駐留していたマッカーサー元帥を任命した。

国連旗

当時、国連安全保障理事会は、理事国が中華民国から中華人民共和国に交代しないことに抗議の目的でソ連が出席をボイコットしていた。拒否権をもつソ連が棄権したことで、国連安全保障理事会の決議の決定を拒否する国はなく、北朝鮮への非難決議も国連軍の創設が決定した。実質はアメリカ軍であったが、国連軍として韓国に駐在した。

北朝鮮の軍事力

1949年と50年に、北朝鮮の金日成首相はソ連を訪問し、当時のスターリン首相から、武力統一の方針への支持を取りつけた。また、1949年、中国人民解放軍に所属していた朝鮮系中国人部隊3万人とそれらの兵器を北朝鮮に援助していた。北朝鮮は、このような多くの軍事的支援を背景に進軍を進めた。

T34戦車

朝鮮戦争の初期段階、戦況は北朝鮮の一方的なものとなった。1948年、それまで北朝鮮に駐留していたソ連軍が撤退した際、ソ連軍が持っていた主要な武器を、そのまま人民軍に供与した。その中でT34戦車は主力で、当初は150両を残し、さらに100両が与えられた。一方、韓国駐留のアメリカ軍の軍事顧問は、朝鮮半島は山が多く戦車にはふさわしくないとして、韓国軍は戦車を持たなかった。実際に朝鮮戦争が始まると、北朝鮮の人民軍は、戦車を先頭に攻撃し、韓国軍は撤退を繰り返した。

釜山円陣

在日アメリカ軍が派遣されたが、装備は不充分で、北朝鮮軍の進撃は止まることがなかった。このため、朝鮮戦争が始まって2ヵ月後の1950年7月31日には、韓国軍と国連軍は、半島南東部の釜山を囲む形のわずかな半円(釜山円陣)を残すのみであった。韓国・アメリカ軍の抵抗に、北朝鮮は攻めあぐねた。

補給

38度線より北朝鮮本国からの武器、弾薬、食糧を運ぶ補給路は延びきっている状況で、制空権を抑えたアメリカ軍が北朝鮮の物資輸送を空爆し、北朝鮮の補給を絶った。

八十一号命令

補給を絶たれた北朝鮮軍は飢えに悩まされ、また、国連軍の反撃の中で脱走兵が相次いだ。金日成は8月「戦場から逃走しようとする者を、職位のいかんを問わずその場で銃殺すること」という「八十一号命令」を出した。

クロマイト作戦

9月15日、国連軍によるクロマイト作戦(仁川上陸作戦)を境に戦況は国連軍に有利に運ぶようになる。釜山を守る韓国軍と国連軍を攻撃する態勢に入っていた北朝鮮軍の背後に大部隊を上陸させ、北朝鮮軍を包囲する作戦で、朝鮮半島の西海岸・仁川に250隻の艦隊を使って、4万人のアメリカ軍を上陸させた。釜山への攻撃に集中していた北朝鮮軍は、背後に国連軍に回り込まれて孤立すると、北朝鮮の軍隊が総崩れにあった。

ソウル奪還

国連軍は、北上を続け、遂に9月26日、首都ソウルを奪還した。ソウルを取り戻した国連軍は、さらに北上し、38度線を越えて北朝鮮へ進撃した。10月19日、国連軍は、北朝鮮の首都・ピョンヤンを攻撃して占領した。

中国解放軍

1950年10月25日、ピョンヤンからさらに北上していた国連軍は、従来の北朝鮮軍とは違う、先鋭された部隊と軍事衝突することになる。捕虜の尋問から人民解放軍であることがわかるが、国連軍は当初、中国の介入を信じようとはせず、対応が遅れ、国連軍部隊は、中国軍の人海戦術に総崩れとなった。

ソウルの争奪戦

中国軍の大攻勢で、国連軍は38度線の南へ後退しましたが、中国軍の攻勢はおさまらず、さらに後退を続けた。一度は取り戻した首都ソウルを、1951年1月4日、再び放棄することになった。北緯37度線を守備の戦線にして、態勢を建て直したが、中国軍も戦線が延びきって補給困難な状況になる。ここで国連軍が反撃に出て、1951年3月15日、再びソウルを奪還した。

ソ連軍

朝鮮戦争では、史上初のジェット機同士の空中戦も行われたが、北朝鮮空軍のミグ戦闘機にはソ連軍のパイロットが多数のっており、極秘裏にソ連軍も参戦していたことが後に判明した。

マッカーサーの解任

朝鮮戦争の末期、38度線付近で一進一退の膠着状態に陥るようになる。この状態に危機状況と判断した国連軍司令官のマッカーサーは、中国に対する原爆の使用の許可を求めたが、これをきっかけにアメリカのトルーマン大統領は1951年4月、マッカーサーの解任にいたる。戦争の最中に最高司令官を解任するという、極めて異例の事態に陥った。

老兵は死なず、ただ消え去るのみ

休戦

1951年7月、両者とも進展なく被害だけが広がり、ソ連の呼びかけで休戦会談が始まった。休戦会談の場所になったのは、板門店の北西の開城という町で、南側代表は国連軍(アメリカ軍)と韓国軍、北側代表は、北朝鮮と中国軍であった。会談は激しい対立からすぐに中断し、10月に再開されたが、このときから場所は板門店に移った。休戦協定の話合いは難航に難航を重ね、結局、板門店で休戦協定の調印式が行われたのは、1952年7月27日であった。しかし、休戦協定に不満だった韓国側は協定に調印せず、国連軍、北朝鮮、中国が調印して休戦協定が成立した。南北両国は、ほぼ北緯38度線を境に軍事境界ラインで分割されました。正確には、半島の西部ではラインが南に下がり、逆に東側ではラインが北に出ている。そして、この軍事境界ラインの南北それぞれ2キロを非武装地帯にして、両軍の駐留を禁じた。

犠牲者

朝鮮戦争は3年間続き、互いに何も得ないまま、膨大な死者と、離散家族、互いの憎しみだけがのこった。犠牲者は、兵士、民間人を合わせて、270万人から360万人ものと推定されているが、詳細はわかっていない。

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