ロシア革命|帝政崩壊とソ連誕生

ロシア革命

ロシア革命とは、1917年を中心に帝政ロシアが崩壊し、世界初の社会主義国家が成立する過程を指す革命運動である。二月革命によるロマノフ朝の終焉と、十月革命によるボリシェヴィキ政権の成立という2つの大きな政治的転換を含み、その後のロシア内戦を通じて1922年にソビエト連邦が誕生した。農民・労働者・兵士を中心とする大衆運動と、マルクス主義を掲げた革命政党の結合によって、旧来の君主制・貴族制社会が根底から転換された点に大きな特徴がある。

帝政ロシアの危機と第一次世界大戦

19世紀末から20世紀初頭にかけての帝政ロシアは、農奴解放後も地主制が温存され、農民は重い地代と税負担に苦しんでいた。一方都市部では急速な工業化が進み、長時間労働と低賃金に不満を募らせた労働者がストライキを繰り返した。1905年の第1次ロシア革命を経ても専制体制は本質的には維持され、政治的自由は限定的であった。こうした社会的矛盾の上に、1914年の第一次世界大戦参戦が追い打ちをかけ、物価高騰と食糧不足、前線での大損害が国民の怒りを高めた。

二月革命とロマノフ朝の崩壊

1917年2月、首都ペトログラードではパン不足に抗議するデモと工場ストライキが拡大し、鎮圧を命じられた兵士の一部が市民側に寝返ったことで反乱は一気に広がった。こうして300年続いたロマノフ朝の皇帝ニコライ2世は退位し、帝政ロシアは崩壊した。この二月革命は、都市労働者と兵士、さらに食糧不足に苦しむ市民が自発的に行動した大衆革命であり、その結果として自由主義的な臨時政府と、労働者・兵士の代表機関であるソヴィエトが併存する新たな政治状況が生まれた。

臨時政府とソヴィエトの二重権力

二月革命後に成立した臨時政府は、立憲的な議会政治の確立をめざしたが、戦争継続の方針を改めず、土地問題や民族問題の抜本的解決も先送りにした。そのため農民や兵士・労働者の支持は乏しく、実際の大衆の信頼は各地のソヴィエトに集まった。ペトログラード・ソヴィエトでは、メンシェヴィキや社会革命党に加え、のちに主導権を握るボリシェヴィキが勢力を伸ばしていった。亡命先から帰国したレーニンは「すべての権力をソヴィエトへ」「パン・土地・平和」を掲げる急進的路線を提示し、戦争と貧困に苦しむ人民の支持を獲得していったのである。

十月革命とボリシェヴィキ政権の成立

1917年10月、ペトログラードではソヴィエトが軍事革命委員会を組織し、武装蜂起の準備を整えた。ボリシェヴィキは臨時政府の拠点である冬宮をほぼ流血なく掌握し、臨時政府を打倒した。この出来事が狭義のロシア革命、すなわち十月革命と呼ばれる。新政権は人民委員会議を設置し、地主所有地の没収を認める土地令、即時講和をめざす「平和に関する布告」を発した。その後、ドイツとの間でブレスト=リトフスク条約を締結し、厳しい領土割譲を受け入れる代わりに戦争から離脱したが、この決定は国内外で大きな論争を呼んだ。

ロシア内戦と戦時共産主義

十月革命後のロシアでは、旧帝政勢力や自由主義勢力、反ボリシェヴィキ諸派が「白軍」として各地で武装抵抗を続け、ボリシェヴィキを中心とする「赤軍」との内戦が勃発した。連合国による干渉戦争も加わり、国内は深刻な混乱と荒廃に見舞われた。政権は前線維持と都市への食糧供給のため「戦時共産主義」と呼ばれる過酷な政策を採用し、農民から穀物を強制徴発した結果、農民の不満も高まった。内戦終結後には、新経済政策(ネップ)に転じて市場メカニズムを一部容認し、経済の立て直しが図られた。

ソビエト連邦の成立と世界史的意義

1922年、ロシアやウクライナなど複数の共和国からなる連邦国家としてソビエト連邦が成立し、十月革命で生まれた政権は社会主義国家としての体制を固めた。ロシア革命は、マルクス主義に基づく権力掌握の成功例として各地の共産党・労働運動に強い影響を与え、アジアや植民地世界においても帝国主義への抵抗運動を刺激した。他方で、党の一党独裁と計画経済、政治的抑圧という体制は、資本主義国家との対立を深め、20世紀の国際政治に長期的な緊張をもたらした。こうしてロシア革命は、単なる一国の政変にとどまらず、20世紀世界秩序の出発点となったのである。