第一次世界大戦
第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて主としてヨーロッパを戦場として行われた世界規模の戦争である。ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国などの同盟国側と、イギリス・フランス・ロシア帝国、のちにアメリカ合衆国などが加わる連合国側が対立し、総力戦体制のもとで莫大な人的・物的損害をもたらした。この戦争は、ヨーロッパ国際秩序の崩壊と帝国の解体、そして戦後の新しい国際秩序と革命運動の連鎖を生み出したという点で、近代世界史の転換点である。
戦争の背景と列強の対立
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強は帝国主義政策をとり、海外植民地の拡大と軍備拡張を競っていた。ドイツ帝国の急速な工業化と海軍力増強は、先行するイギリスの危機感を強め、列強間の緊張を高めた。またフランスは普仏戦争で失ったアルザス=ロレーヌの奪還を宿願とし、ロシアはバルカンや海峡への南下を狙った。こうした利害の衝突が、やがて第一次世界大戦へつながる構造的要因となった。
同盟体制とバルカン半島の緊張
列強は自国の安全保障を確保するために同盟網を張りめぐらせた。ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアからなる三国同盟に対し、フランス・ロシア・イギリスは段階的に接近し三国協商と呼ばれる協力関係を築いた。なかでも「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島では、オスマン帝国の衰退と各民族の独立運動が進み、セルビアの拡大を警戒するオーストリア=ハンガリーとの対立が深まっていた。1908年のボスニア併合は、ロシアやセルビアの反発を招き、地域の緊張を一層高めた。
オスマン帝国と国民運動の高まり
戦争前夜の国際情勢を理解するには、オスマン帝国とその周辺地域の動きも重要である。青年将校らによる青年トルコ革命や、帝国内外に広がったオスマン主義、さらには汎トルコを掲げたパン=トルコ主義などの思想は、衰退する帝国を立て直そうとする試みであった。同時期のイランでは専制に対抗するイラン立憲革命が進み、近代的立憲体制を求める運動が中東一帯で高揚していた。こうした政治的変動は、オスマン帝国がやがて中央同盟国側で第一次世界大戦に参戦する背景にもなった。
サライェヴォ事件と戦争の勃発
1914年6月、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公が、併合地ボスニアの中心都市サライェヴォ訪問中に、セルビア系青年によって暗殺された。このサライェヴォ事件は、列強の対立を一気に表面化させる引き金となった。オーストリア=ハンガリーはセルビアに最後通牒を突きつけ、ロシアがセルビアを支援して動員を開始すると、ドイツがロシア・フランスに宣戦布告した。複雑な同盟関係が連鎖的に働いたことで、局地的危機はたちまちヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦へと発展したのである。
フランツ=フェルディナントとボスニア問題
暗殺された大公フランツ=フェルディナントは、帝国内のスラヴ民族に一定の自治を認める構想を持っていたとされる。その存在は、支配民族であるドイツ人・マジャル人の特権を揺るがしかねない一方で、南スラヴ統合を目指すセルビア民族主義者にとっても障害であった。大公の死は、この地域における妥協の可能性を消し去り、オーストリア=ハンガリーの対セルビア強硬路線を後押しした点で、第一次世界大戦の発火点として歴史的意味を持つ。
戦争初期の作戦と膠着
戦争初期、ドイツは西でフランスを急速に撃破し、東でロシアと戦うという戦略を採用した。しかしベルギー侵犯を経てフランスに侵攻したドイツ軍は、マルヌの戦いで連合軍に阻まれ、戦線はフランス北部で膠着した。両軍は塹壕を掘って防御を固め、西部戦線は長大な塹壕戦となった。一方、東部戦線ではロシア軍がドイツ領に侵入したものの、タンネンベルクの戦いなどで撃退され、戦局は一進一退を繰り返した。
オスマン帝国の参戦と戦線の拡大
オスマン帝国はドイツとの同盟関係を深め、1914年に中央同盟国側で参戦した。ドイツ派の軍人エンヴェル=パシャらは戦争を通じて帝国の地位回復を図ろうとしたが、結果的には中東戦線の拡大を招き、アラブ反乱や英仏の介入を許すことになった。ガリポリの戦いや中東での攻防は、第一次世界大戦がもはやヨーロッパ内部の戦争にとどまらず、世界各地を巻き込む戦争となったことを示している。
総力戦と社会への影響
第一次世界大戦では、従来の戦争以上に国家の総力が動員された。徴兵制により多数の兵士が前線に送られ、銃砲や弾薬、戦車、航空機などの軍需生産のために、女性を含む労働者が工場に動員された。政府は報道統制やプロパガンダを通じて世論を管理し、経済統制や配給制度によって民衆生活も戦争に組み込まれた。毒ガスや機関銃の使用、無差別に近い砲撃は、兵士に未曾有の心理的・肉体的損害を与え、戦後の社会不安や価値観の動揺を生み出す要因となった。
アメリカ参戦とロシア革命
戦争が長期化するなかで、1917年には二つの重大な出来事が起こった。ひとつはドイツの無制限潜水艦作戦などを契機とするアメリカ合衆国の参戦であり、もうひとつはロマノフ朝崩壊とボリシェヴィキ政権の成立である。ロシアは単独講和に踏み切って戦線を離脱し、その過程は第一次世界大戦とロシア革命という歴史的テーマとして後世に大きな影響を与えた。一方でアメリカの参戦は、資源・兵力の面で連合国側を大きく優位に立たせ、中央同盟国の敗北を決定づけた。
講和とヴェルサイユ体制
1918年に入り、ドイツやオーストリア=ハンガリーでは戦争疲弊と革命的動揺が高まり、同年11月にはドイツで共和制が宣言されて休戦条約が結ばれた。講和会議の結果、ドイツに厳しい賠償と軍備制限を課すヴェルサイユ条約が締結され、国際連盟が設立された。またヨーロッパ東部・中東では帝国の崩壊に伴い多数の新興国家が生まれ、民族自決の原則が一定程度認められた。しかし同時に植民地支配は温存され、講和の内容は多くの不満と対立の火種を残した。
- 第一次世界大戦後の国際秩序は、平和維持を掲げた国際連盟と各国の安全保障不安のあいだで揺れ動き、再軍備や権威主義体制の台頭を招いた。
- 講和条約によって国境線が引き直されたヨーロッパや中東では、民族問題や少数派問題が解決されないまま残され、後の紛争の原因となった。
- 戦争の経験は、文学や芸術、思想にも深い影響を与え、「失われた世代」と呼ばれる戦争体験世代の精神的空白を特徴づけることになった。
世界史における意義
第一次世界大戦は、ヨーロッパ中心の国際秩序が終焉し、アメリカやソビエトロシアといった新たな主体が台頭する転換点であった。同時に、帝国の解体と民族自決の高まりは、20世紀後半の脱植民地化へとつながる長期的な潮流を生み出した。戦争そのものは1918年に終結したものの、講和の不均衡や経済不安、イデオロギー対立は解消されず、やがてさらに大規模な戦争へと連続していく。したがって、この戦争は単なる一時的な軍事衝突ではなく、近代から現代への世界秩序の構造変化を示す重要な節目として位置づけられるのである。