ボスニア|多民族が交錯するバルカン地域

ボスニア

ボスニア」は、西バルカンに位置する歴史的・地理的地域であり、現在の国家「ボスニア・ヘルツェゴビナ」を構成する主要部分である。内陸に広がる山地と河川流域を中心とし、南西部のヘルツェゴビナ地方と区別されることが多い。中世以来、この地域は東西の文明が交差する要衝であり、宗教・民族・帝国支配が複雑に重なり合ってきた点に特徴がある。

地理と名称

ボスニアは、おおむねボスナ川流域を中心とする内陸高原部を指し、南のヘルツェゴビナがより地中海的な気候と地形をもつのに対し、冷涼な山岳気候が卓越する。地域全体はバルカン半島北西部に位置し、アドリア海からは直接の海岸線をほとんど持たないが、古くから交易路と軍事道路が通じ、内陸と地中海世界を結ぶ中継地として機能してきた。「ボスニア」という名称は、中世の文書では川の名ボスナに由来するとされ、地理的範囲は時代により変動している。

中世ボスニア王国

中世には、ボスニアはハン(総督)によって支配されるバン国として台頭し、やがて独立した王国へと発展した。周辺のハンガリー王国やセルビア諸勢力との間で勢力争いが繰り返されるなか、ボスニア王国は地理的な山岳要塞性を生かし、比較的自立した政治構造を維持したとされる。また、いわゆるボスニア教会と呼ばれる独自の宗教勢力が存在したことでも知られ、カトリック・正教会との対立や協調が複雑に絡み合った。

民族構成と宗教

  • 中世期には、南スラヴ系住民を基盤にしつつ、ラテン系や他地域からの移住民も含む多様な人口構成が見られた。
  • 宗教面ではカトリック・ギリシア正教・ボスニア教会が並存し、後世のナショナリズムの起点となる文化的多元性が形成された。

オスマン帝国支配下のボスニア

15世紀後半になると、オスマン帝国がバルカンへ進出し、1463年にはボスニア王国が征服された。以後、ボスニアはオスマンの一州として再編され、イスラームへの改宗を通じてムスリム住民(後のボシュニャク人)が形成されていった。徴兵制度や土地制度は帝国全体の枠組みに組み込まれ、辺境防衛の重要拠点として多くの軍人・官僚を輩出した。宗教的にはイスラーム、正教、カトリックが併存し、都市部と農村部で信仰分布が異なるなど、階層と宗教が結びつく構造もみられた。

オーストリア=ハンガリー統治と民族意識

19世紀になると、オスマン帝国の衰退とともにバルカン諸地域では民族自決を掲げる運動が活発化し、ボスニアでも周辺のセルビア人・クロアチア人の民族運動と連動した政治的緊張が高まった。1878年のベルリン会議を経て、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴビナの占領統治権を獲得し、1908年には正式に併合を宣言する。帝国当局は近代行政やインフラ整備を進めたが、セルビア系住民を中心に強い反発が起こり、やがてサライェヴォ事件を契機として第一次世界大戦へとつながっていく。

ユーゴスラビア時代

第一次世界大戦後、ボスニアはセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となり、第二次世界大戦中には各勢力による激しい戦闘と報復の舞台となった。戦後は社会主義ユーゴスラビア連邦の構成共和国「ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国」として再編され、工業化と都市化が進む一方、憲法上は「諸民族の平等」が掲げられた。とはいえ、共産党政権のもとで民族間対立は表面上抑えられていたにすぎず、連邦の弱体化とともに再び政治化していくことになる。

ボスニア紛争とデイトン合意

1990年代初頭、冷戦終結後のユーゴスラビア連邦解体の過程で、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言したが、ボシュニャク人・セルビア人・クロアチア人の三民族間で武力衝突が発生し、いわゆるボスニア紛争が勃発した。紛争では民族浄化と呼ばれる住民追放や虐殺が国際社会の深刻な非難を招き、多国籍軍の介入と外交交渉を経て、1995年のデイトン合意により停戦と新たな国家枠組みが定められた。この合意は、領域の実効支配状況を反映した複雑な政治制度を採用した点でも特異である。

現代のボスニア・ヘルツェゴビナ

デイトン合意後、ボスニア・ヘルツェゴビナは「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「スルプスカ共和国」という二つの構成主体とブリチュコ特別区から成る国家として存続している。三民族の代表制や輪番制の大統領職など、きわめて複雑な統治機構は、紛争再発を防ぐ安全装置であると同時に、政治の停滞や経済改革の遅れを生む要因ともなっている。現在も、欧州統合への参加や地域協力を模索しつつ、戦争の記憶と多民族共生のあいだで揺れ動く社会がボスニアの重要な課題であり続けている。