民族自決|民族が自ら進路を選ぶ権利

民族自決

民族自決とは、共通の歴史・言語・文化などによって結びついた民族が、自らの政治的帰属や国家のあり方を自律的に決定するべきだとする原理である。この原理は、特に第一次世界大戦後、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した平和構想の中心理念として広く知られるようになり、多民族帝国の解体や新国家の誕生を正当化する理論となったが、その適用範囲や解釈をめぐって多くの矛盾や葛藤も生み出した。

概念と思想的背景

民族自決の思想的背景には、近代の自由主義とナショナリズムの発展がある。個人が自由で平等な存在とみなされるようになると同時に、民族という集団もまた固有の権利主体と考えられ、主権は王朝ではなく民族に属すると主張された。この発想は、旧体制を打倒したフランス革命や、その後ヨーロッパ各地で展開した民族運動を通じて形成され、19世紀後半には、多民族帝国の内部で少数民族が独立や自治を要求する理論的根拠となったのである。

第一次世界大戦とウィルソンの十四カ条

民族自決が国際政治の場で明確に掲げられたのは、1918年にアメリカ大統領ウィルソンが提示した「十四カ条」である。そこでは、戦後処理にあたって民族の希望を尊重して国境線を画定すべきだと述べられ、オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国などの多民族帝国の領土再編に用いられた。戦後の平和会議とヴェルサイユ体制の下で、この原理は主として東欧・中欧の民族に対して適用され、新たにポーランドやチェコスロヴァキアなどの独立国家が生まれたのである。

ヨーロッパ国際秩序への影響と矛盾

民族自決は、多民族帝国を解体し、小さな民族国家を多数誕生させる原動力となった一方で、現実の国境線は必ずしも民族分布と一致しなかった。その結果、新国家の内部には別の民族が少数派として取り残され、新たな少数民族問題や領土紛争が生じた。また、敗戦国のドイツやハンガリーでは、「自民族の自決が侵害された」とする不満が蓄積し、後の国際対立や過激なナショナリズムを生み出す要因ともなった。

  • ポーランドやチェコスロヴァキアなど、東欧に誕生した新国家
  • セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人を統合した南スラヴ国家ユーゴスラヴィア
  • オーストリア、ハンガリーなど旧帝国から分離した諸国家

植民地世界と民族運動の高揚

しかし、民族自決の原理は、ヨーロッパ以外の植民地世界にはほとんど適用されなかった。列強は依然としてアジアやアフリカの支配を正当化し、帝国主義体制を維持しようとしたためである。にもかかわらず、ウィルソンの言葉やロシア革命後のボルシェヴィキ政権による植民地解放の呼びかけは、インド、中国、朝鮮など各地の民族運動に大きな刺激を与えた。1919年前後には、朝鮮の三・一運動や中国の五四運動などが相次ぎ、支配される側の人びとも、自らの民族的権利を主張して独立や自治を求めるようになったのである。

戦後国際秩序と現代の民族自決

民族自決は、第一次世界大戦後に設立された国際連盟や、第二次世界大戦後の国際連合の枠組みの中で、徐々に植民地支配の不当性を指摘する原理としても重みを増していった。とくに第二次世界大戦後には、多くの植民地が独立に向かい、アジア・アフリカの新興国家はこの原理を外交的な武器として用いた。一方で、冷戦終結後の東欧や旧ソ連地域では、民族や宗教の対立が再び激化し、分離独立運動や内戦という形で民族自決が主張されるなど、この原理が常に安定と平和に結びつくわけではないという側面も浮き彫りになっている。