エンヴェル=パシャ
エンヴェル=パシャは、オスマン末期の軍人・政治家であり、いわゆる青年トルコ人の代表的人物として、帝国の立憲化と軍事的再建を主導した人物である。彼は青年トルコ運動と青年トルコ革命の英雄として台頭し、のちには統一と進歩委員会政権の軍事的中枢を担って、第1次世界大戦におけるオスマン帝国参戦を主導した。また、戦後にはパン=トルコ主義にもとづき中央アジアでの蜂起を指導するなど、その行動はオスマン帝国崩壊期の政治・軍事動向と密接に結びついている。
生い立ちと軍歴の出発
エンヴェル=パシャは1880年代にオスマン帝国領のモナスティル地方に生まれ、イスタンブルの陸軍学校・陸軍大学で教育を受けたエリート軍人である。若年期から専制的なアブデュルハミト2世体制に批判的で、マケドニア方面に駐屯する第3軍に配属されると、秘密結社的な軍人グループの一員として立憲政治の実現をめざした。バルカン地域では民族運動や列強の干渉が激しく、オスマン政府の無能と腐敗に対する軍人の不満が強まっており、彼の急進化もこのような環境の中で進んだと理解される。
青年トルコ運動と台頭
20世紀初頭、亡命知識人を中心に展開していた青年トルコ運動は、帝国内部の軍人層とも連携しつつ勢力を拡大し、その中心組織が統一と進歩委員会であった。マケドニア駐屯軍の将校であったエンヴェル=パシャは、この組織の中核メンバーとして、軍事的圧力を背景に1908年の青年トルコ革命を主導し、スルタンにミドハト憲法の復活を認めさせた。その後の1909年には反動的な反乱(いわゆる「31年事件」)が起こるが、彼はこれを鎮圧する行動軍にも参加し、「自由の英雄」として帝国内で名声を高めたのである。
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1908年 エンヴェル=パシャらが蜂起し立憲政治が復活
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1909年 反動クーデタを鎮圧し青年トルコ政権が強化
統一と進歩委員会政権の中枢
バルカン戦争での敗北を契機に、1913年に統一と進歩委員会はクーデタを行い、タラートやジャマルとともにエンヴェル=パシャが権力の頂点に立った。彼は戦争大臣となり、軍制改革やドイツ軍事顧問団の受け入れを進めて帝国の立て直しを図ったが、その政策はしばしば急進的でギャンブル的であった。かつて帝国外諸民族との協調をめざしたオスマン主義の理念は後退し、トルコ人中心の民族主義的な路線が強まり、少数民族政策は硬化していく。
第一次世界大戦と軍事指導
戦争大臣となったエンヴェル=パシャは、ドイツへの接近を一層強め、1914年に秘密同盟を結んでオスマン帝国を第1次世界大戦へと導いた。黒海でのロシア艦隊攻撃を通じて戦争を既成事実化し、帝国を中央同盟国側で参戦させたことは、彼の決定的な政治判断であった。彼はコーカサス戦線で大規模な攻勢を指揮したが、サルカムシュ作戦では準備不足と厳冬により壊滅的敗北を喫し、多数の兵士を失った。この失敗は軍の信頼を損ない、帝国の戦局を大きく悪化させた。また彼の下で、アルメニア人などに対する強硬政策が進み、帝国内部の亀裂はさらに深まった。
パン=イスラーム主義・パン=トルコ主義と中央アジア遠征
エンヴェル=パシャは、ドイツと協調して列強支配下のムスリムを扇動しようとし、ジハードを呼びかけるなどパン=イスラーム主義的な宣伝も利用した。しかし戦局が悪化し、1918年の講和後には政権が崩壊して国外亡命を余儀なくされる。彼はソ連政権との協力を模索しつつもやがて対立し、中央アジアでパン=トルコ主義の理想を掲げて蜂起勢力を指導した。こうした思想的背景には、19世紀後半のイスラーム改革思想家アフガーニーやムハンマド=アブドゥフらの影響を受けた汎イスラーム的潮流もあったとされる。最終的に彼は1920年代初頭、赤軍との戦闘のなかで戦死し、その生涯を閉じた。
歴史的評価と意義
エンヴェル=パシャは、専制打倒と立憲政治の実現を掲げた革命家であると同時に、拙速な戦争決定と軍事的冒険によってオスマン帝国の崩壊を早めた指導者として、評価が鋭く分かれる人物である。彼が中心となった青年トルコ政権は、近代化・中央集権化の一方で民族主義的排他性を強め、帝国内の多民族共存を危機に陥れた。この矛盾は、のちのトルコ共和国建国や西アジアの民族運動と立憲運動に大きな影響を与えたといえる。近年の研究では、青年トルコ革命から第1次世界大戦期、そしてパン=トルコ主義的な中央アジア活動に至るまでの連続性に注目し、彼の行動をオスマン末期とトルコ・中東世界の変動の象徴として位置づける視点が重視されている。