青年トルコ|オスマン帝国改革を主導した若手官僚

青年トルコ

概説

青年トルコは、19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、専制政治を批判し、立憲政治と近代化を目指した知識人・軍人・官僚らの運動である。彼らは帝国の弱体化と列強の干渉が進むなかで、憲法の制定や議会の復活を通じて国家を再生しようとした。とくに1908年のいわゆる「青年トルコ革命」によって、1876年に制定されながら停止されていたミドハト憲法が復活し、立憲体制が再建された点で、西アジア近代史において重要な転機とみなされる。

歴史的背景

19世紀のオスマン帝国は、領土の縮小と財政危機に苦しみ、列強との不平等条約や債務管理によって主権が侵食されていた。支配層は軍制改革や行政近代化を目指すタンジマート改革を進めたが、専制的なスルタン権力と保守的な宗教勢力の抵抗も強く、十分な成果をあげられなかった。アブデュルハミト2世は当初、憲法制定と議会開設を受け入れたものの、1877~78年の露土戦争後に議会を停止し、個人専制を強めた。このような状況のもとで、帝国の生き残りを図る改革派知識人や若手軍人のあいだに、専制を批判し立憲体制を求める青年トルコの動きが形成されていった。

形成と組織

青年トルコは単一の組織からなる運動ではなく、帝国内外に分散した複数の政治結社・秘密結社の総称である。帝国各地やヨーロッパ諸都市には、留学生・亡命知識人・新聞人らによる政治サークルが存在し、新聞・雑誌やパンフレットを通じてスルタン専制を批判した。なかでも中心的役割を果たしたのが、のちに政権党となる「統一と進歩委員会(Committee of Union and Progress)」であり、軍人や官僚を組織しながら帝国内のネットワークを拡大した。これらのグループは、フランス革命やヨーロッパ自由主義の思想に触れつつ、イスラーム世界の改革思想やアフガーニーらの議論にも影響を受けていた。

思想と目標

青年トルコの思想は一枚岩ではないが、おおむね次のような点に集約される。

  • スルタン専制の打倒と憲法・議会にもとづく立憲政治の樹立
  • 官僚制・軍制・教育制度の近代化による国家統合と行政の効率化
  • 帝国内の諸民族・諸宗教を包摂する「オスマン主義」から、トルコ人アイデンティティを重視する民族主義への傾斜
  • ヨーロッパ列強との関係を再調整し、主権を守るための外交・軍備改革

彼らはイスラームを否定したわけではなく、むしろ宗教を社会統合の要素とみなしつつ、それを近代的国家原理と調和させようとした点で、パン=イスラーム主義ムハンマド=アブドゥフに代表される改革派イスラーム思想とも接点をもっていた。

青年トルコ革命と政権掌握

1908年、マケドニア方面の基地において統一と進歩委員会系の若手将校が蜂起し、アブデュルハミト2世に憲法復活を迫ったことで青年トルコ革命が勃発した。スルタンはこれを受け入れ、ミドハト憲法の復活と議会再開が実現し、帝国は形式上立憲君主制へ移行した。しかし、1909年には反動的な宗教勢力や旧体制派による反革命運動が起こり、イスタンブルは混乱に陥る。統一と進歩委員会は軍事力を動員してこれを鎮圧し、アブデュルハミト2世を退位させて政権内での主導権を強めた。その後、バルカン諸国との戦争や列強との対立が激化するなかで、統一と進歩委員会はしだいに権力を集中させ、1913年の政変以降は事実上の一党支配体制を築き、第一次世界大戦への参戦決定にも大きく関与した。

イスラーム改革・民族運動との関係

青年トルコの運動は、西アジア世界全体の改革・民族運動と密接に関連していた。専制批判と立憲政治の要求は、イランの立憲革命やオスマン領各地の民族運動と共鳴し、その広がりは「西アジアの民族運動と立憲運動」として把握されることが多い。また、イスラーム共同体の統一と自立を唱えたアフガーニーや、宗教教育の刷新を主張したムハンマド=アブドゥフらの思想は、帝国内のインテリ層に大きな刺激を与えた。かれらの議論は、のちにトルコ民族主義やパン=トルコ主義と結びつきつつ、帝国解体後のトルコ共和国や他地域の民族国家形成にも影響を与えたと理解される。

内部対立と限界

しかし青年トルコは、運動内部の路線対立や、帝国内諸民族への対応をめぐる矛盾を抱えていた。立憲主義と自由を掲げながらも、統一と進歩委員会の支配は次第に権威主義的色彩を強め、反対派新聞の弾圧や選挙操作が行われた。また、多民族帝国の統合をめざす一方で、トルコ人中心の政策はアルメニア人やアラブ人など他民族の不満を高め、帝国の分裂を加速させたと指摘される。バルカン戦争やバルカン戦争、そして第一次世界大戦における過酷な戦争遂行は、帝国社会に甚大な犠牲をもたらし、最終的にはオスマン体制そのものの崩壊へとつながった。

歴史的意義

青年トルコは、結果としてオスマン帝国を救うことはできなかったが、近代的な立憲政治や国民国家の理念を西アジア社会に浸透させた点で大きな歴史的意義をもつ。統一と進歩委員会政権のもとで進められた軍制・教育・官僚制改革は、その後のトルコ共和国の制度基盤となり、ムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク)をはじめとする指導者もこの環境で育成された。また、帝国の危機に応答しようとする青年トルコの試みは、同時期にアジア各地で展開した民族運動や留学生運動、たとえばインドシナの東遊運動ドンズー運動、革命家ファン=ボイ=チャウらの活動とも比較されうる、世界史的な近代改革運動の一環として位置づけられる。