共産主義インターナショナル
共産主義インターナショナルは、第一次世界大戦とロシア革命の衝撃の中で、世界規模の社会主義革命を推進するために設立された国際組織である。通称コミンテルン、あるいは第三インターナショナルとも呼ばれ、創設の中心にはレーニン率いるロシア共産党が位置した。各国の共産党を統一的に指導し、資本主義体制を打倒してプロレタリア独裁を樹立することを最終目標とした点に、その最大の特徴がある。
成立の背景と設立
第一次世界大戦の開戦に際し、かつて国際的な労働運動を担った第二インターナショナルの多くの政党は自国政府の戦争政策を支持し、国際主義の旗を事実上放棄した。この経験からレーニンは、妥協的な社会民主主義勢力と決別し、新たな革命的国際組織の必要性を主張した。1917年のロシア革命でボリシェヴィキが政権を掌握し、翌年にはロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国が誕生すると、その国家的基盤を背景に1919年、モスクワで共産主義インターナショナルが正式に発足したのである。
組織構造と綱領
- 最高機関は世界大会であり、各国共産党から代表が参加して方針を決定した。
- 世界大会の閉会中には執行委員会(ECCI)が常設指導部として機能し、モスクワから各国党を細かく指導した。
- 加盟を希望する政党には「21カ条」と呼ばれる厳格な条件が課され、民主集中制の受け入れや、改良主義勢力との断絶が求められた。
- 綱領面では、マルクス主義をレーニンが発展させたレーニン主義の立場から帝国主義段階の資本主義を分析し、世界革命の連鎖的発展を構想した。
世界革命戦略と各国共産党への影響
共産主義インターナショナルは、単なる討論の場ではなく、各国のソ連共産党以外の共産党を実質的に「支部」とみなして路線を統一しようとした。とくに第3回大会以降、「ボリシェヴィキ化」の方針が打ち出され、各国党はロシア型の厳格な党組織と革命戦略を導入するよう求められた。ロシア革命を守るための赤軍や、治安機関であるチェカの存在は、世界革命の拠点としてのソ連国家の性格を象徴し、コミンテルンの権威を高める一方で、各国党がソ連の対外政策に従属していく契機ともなった。
戦術転換と人民戦線
1920年代前半、コミンテルンは革命直後の高揚を背景に急進的路線をとり、社会民主主義勢力を「社会ファシズム」と攻撃するなど、他勢力との妥協を否定する傾向を強めた。しかし世界恐慌後、ファシズム勢力が台頭すると、路線の行き詰まりが明らかになり、30年代半ばには反ファシズムを掲げる人民戦線戦術へと転換した。この過程では、ソ連自身の国内路線である戦時共産主義から計画経済へという変化、さらには対ドイツ・対西側との関係をめぐる外交戦略の変化が密接に関連していたといえる。
ソ連外交との関係と解散
創設当初は世界革命の司令部を自任した共産主義インターナショナルであったが、時間の経過とともにソ連国家の安全保障や外交上の利害が優先されるようになった。対外干渉と内戦の時期にはシベリア出兵や対ソ干渉戦争への対応、国内では白軍など反革命政権との戦いが重なり、コミンテルンの方針もソ連防衛と深く結びついた。第二次世界大戦中、ソ連は英米との同盟関係を強調する必要から、1943年にコミンテルンの解散を発表し、組織としての歴史に終止符が打たれた。この解散は、世界革命の拠点という建前よりも、国家としてのソ連の利益が最優先される段階に至ったことを示す出来事であった。
歴史的意義
共産主義インターナショナルは、20世紀前半の国際政治と社会運動に大きな影響を与えた。各国の共産党組織、労働運動、植民地支配下の民族解放運動などに理論的・組織的な枠組みを提供し、世界史の重要な担い手を形成した一方、モスクワからの一元的指導は各国の独自性を制約し、多くの党内対立や路線転換を生んだ。こうした功罪併せ持つ歩みは、後の第三インターナショナルの評価や冷戦期の国際共産主義運動を理解する上で、不可欠の歴史的経験となっている。