対ソ干渉戦争
対ソ干渉戦争とは、1918年から1922年頃にかけて、ロシア革命後のロシアに対して英仏米日などの連合国が軍隊を派遣し、ボリシェヴィキ政権を打倒しようとして行った武力干渉である。第一次世界大戦の戦後処理とロシア内戦が重なり合う中で展開され、白軍支援や軍需物資の確保、革命の波及防止など、各国の利害が複雑に絡み合った国際的な紛争であった。
ロシア革命と内戦の背景
1917年の二月革命と十月革命を通じて帝政ロシアは崩壊し、ボリシェヴィキが権力を掌握した。新政府は土地についての布告など急進的な社会改革を進める一方、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで戦線から離脱したため、連合国は東部戦線を失うことになった。この急激な体制転換は旧支配層や反革命勢力の抵抗を招き、各地で白軍が組織され、ロシアは内戦状態に陥った。
連合国の介入目的
連合国が対ソ干渉戦争に踏み切った動機は一様ではない。表向きには、ロシア国内に滞留していた軍需物資や港湾を保護し、連合国側に好意的な勢力を支援することが掲げられた。また革命政権の和平によってドイツが有利になることへの危機感も強く、東部戦線の再建が期待された。さらに、ボリシェヴィキが掲げた世界革命の思想は、資本主義諸国にとって大きな脅威と受け止められ、社会主義政権を孤立させる意図も存在した。
各国の軍事介入
対ソ干渉戦争には複数の国が関与し、その戦場はロシア北部・南部・極東に広がった。主な介入の担い手は次の通りである。
- イギリス・フランス=北ロシアや黒海沿岸に軍を派遣し、白軍を支援した。
- アメリカ合衆国=北ロシアとシベリアに兵力を送り、軍需物資と鉄道の保全を名目とした。
- 日本=極東に大規模な兵力を展開し、シベリアと極東地域で主導的役割を果たした。
- カナダ・イタリアなど=連合軍の一部として限定的な派兵を行った。
これらの干渉軍は、ロシア国内の白軍・分離独立運動と連携しつつ行動したが、統一した戦略を欠き、各国の思惑の違いが作戦の不統一をもたらした。
日本のシベリア出兵
日本は対ソ干渉戦争において最大規模の兵力を投入した国であり、いわゆるシベリア出兵を行った。1918年、連合国はチェコ軍団救出と軍需物資保護を理由に共同出兵を決定し、日本もこれに参加したが、実際には極東ロシアにおける勢力拡大を意図していたとされる。日本軍は沿海州やシベリア内陸部に広く進出し、極東地域の政権とも接触しながら長期駐留を続けたため、ソヴィエト側との緊張は高まり、日本国内でも戦費負担や兵士の犠牲に対する批判が強まった。
国内政治と外交への影響
シベリア出兵の長期化は、日本の財政を圧迫し、政党政治にも大きな影響を与えた。また、ソヴィエト政権との対立は、その後の日本とロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国との国交樹立交渉を困難にした。最終的に日本軍がシベリアから完全撤兵したのは1922年であり、北サハリンからの撤退は1925年にまでずれ込んだ。
干渉戦争の終結とソヴィエト国家の成立
1920年頃から連合国では干渉継続への批判が高まり、アメリカや欧州諸国は順次撤兵に踏み切った。白軍は次第に敗退し、ボリシェヴィキの赤軍が内戦に勝利したことで対ソ干渉戦争は収束へ向かった。1922年にはソ連共産党を支柱とする新国家としてロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国を含む連邦体制が構想され、同年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。
国際関係と民族独立への波及
対ソ干渉戦争とロシア内戦の過程で、旧ロシア帝国領内の周縁地域では民族運動が活発化した。とくに西方ではフィンランドの独立やバルト三国の独立、ポーランドの独立が進み、帝国支配の解体が現実のものとなった。これらの動きはヨーロッパの国際秩序を大きく変化させ、その後の国際政治に長期的な影響を及ぼした。
歴史的評価とソヴィエト側の記憶
対ソ干渉戦争は、ソヴィエト側からみれば社会主義革命を外から圧殺しようとした侵略行為と位置づけられ、長く対外不信の記憶として残った。この経験は、ボリシェヴィキ独裁やプロレタリア独裁の正当化の一要因ともなり、国内の権力集中を推し進める論拠として利用された。また、干渉に参加した諸国にとっても、過大な戦費と成果の乏しさから「失敗した対外干渉」として批判的に総括されている。現在、対ソ干渉戦争は、第一次世界大戦後の混乱と革命への恐怖が生み出した典型的な介入戦争として、ロシア革命史やソヴィエト政権と戦時共産主義の研究において重要な位置を占めている。