シベリア出兵|革命ロシアをめぐる列強軍事介入

シベリア出兵

シベリア出兵は、第一次世界大戦末期から戦後にかけて、日本を中心とする連合国諸国がロシア極東地域に軍隊を派遣した行動である。名目上は、ロシア革命後の内戦下で孤立したチェコ軍団の救出や軍需物資の保護であったが、実際にはロシア極東への勢力拡大やボリシェヴィキ政権への牽制など、多面的な意図が存在したとされる。日本は最大規模の軍を派遣し、ウラジオストクやシベリア各地を占領したが、長期化と多大な犠牲、国内世論の批判に直面し、最終的には1922年に撤兵した。

シベリア出兵の背景

1917年の二月革命と十月革命によって帝政ロシアが崩壊すると、ロシアはドイツとの単独講和に向かい、東部戦線は事実上瓦解した。これに危機感を抱いた連合国は、ドイツへの軍需物資流出阻止と、反ボリシェヴィキ勢力の支援、さらには戦線再建の可能性を探るため、ロシア内戦への干渉を企図した。極東地域では、シベリア鉄道沿線に大量の軍需物資が残され、チェコ軍団が内戦の渦中で孤立していたため、日本を含む諸国が出兵の口実としたのである。

日本政府の決定と目的

日本では、従来からロシア極東への進出を構想していた一部の軍部・政財界が、シベリア出兵を好機と捉えた。一方で、米国は限定的な共同出兵を主張し、日本単独での大規模進出に警戒感を示した。最終的に寺内正毅内閣は、米国との共同出兵という形を取りつつも、約7,500人とされた当初構想を大きく超えた数万規模の派兵を決定したとされる。日本側の目的には、ボリシェヴィキ政権への圧力だけでなく、満洲・シベリアにおける利権確保や鉄道・港湾の掌握といった帝国主義的な意図も含まれていた。

出兵の経過

1918年7月、日本軍は米軍や英仏軍などとともにウラジオストクに上陸し、その後内陸部へ進撃した。日本軍は沿海州からアムール川流域、さらに内陸のイルクーツク周辺にまで展開し、一時は十数万ともいわれる兵力をシベリアに駐留させた。他方で、欧露方面では連合国が北ロシアにも干渉軍を派遣しており、こうした一連の軍事行動はのちに総称して対ソ干渉戦争と呼ばれる。

現地政権との関係

日本軍は、ロシア内戦における反ボリシェヴィキ勢力、とくに極東地方の白軍政権や自称政府を支援し、軍事援助や治安維持を名目として占領地の行政にも深く関与した。その結果、日本軍は地域社会の利害対立や民族問題に巻き込まれ、住民との軋轢や反日感情を招くことになった。また、他の連合国軍や米軍との政策の相違も顕在化し、共同干渉でありながら各国の利害が錯綜する複雑な状況が生じた。

国内政治と社会への影響

日本国内では、1918年の米騒動を契機として、出兵に対する批判的な世論が広がった。長期の戦時体制と物価高騰のもとで、さらに海外への大規模出兵を行うことは、国民生活への負担増として受け止められたからである。米騒動後に成立した原敬内閣は、政党内閣として比較的慎重な対外姿勢を示しつつも、すでに開始されたシベリア出兵を急激に転換することはできず、撤兵問題は政権にとって大きな政治課題となった。

財政負担と兵士の犠牲

シベリア出兵は、日本財政にとっても大きな負担であった。厳寒のシベリアでの兵站維持には莫大な経費を要し、多くの兵士が戦闘のみならず、寒さや疫病によって命を落としたとされる。こうした犠牲に見合うだけの成果が明確でなかったことは、出兵への批判と撤兵要求を高める一因となった。

撤兵と国際関係

ヨーロッパでは連合国が次第にロシア内戦への関与を縮小し、極東でも各国が順次撤兵を進めるなか、日本だけが大規模な軍を残し続けた。このことは、ボリシェヴィキ政権だけでなく、米国をはじめとする他の列強からも警戒と不信を招いた。1920年代に入ると、日本政府は国際協調路線を志向するようになり、ワシントン会議などを通じて対外政策の見直しを進めるなかで、シベリアからの撤兵を決断する。1922年、日本軍はようやくシベリアから全面撤兵し、ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国との関係は新たな段階に入っていった。

歴史的意義

シベリア出兵は、日本が第一次世界大戦後の国際秩序の再編にどのように関与したかを示す重要な事件であるとともに、軍部・政党内閣・世論の関係や、帝国主義的膨張と国際協調との葛藤を考える上で重要な事例である。ロシア側から見れば、対外干渉への警戒感と対日不信の源泉の一つとなり、のちの日ソ関係にも影を落とした。また、日本国内においては、軍事行動の是非をめぐる議会や新聞の議論、戦地からの兵士の体験、戦後処理をめぐる政治的対立などを通じて、近代日本の外交と軍事のあり方を問う契機となったと評価されている。