赤軍|革命を支えたソ連軍事組織

赤軍

赤軍は、1917年のロシア革命後に成立したソヴィエト国家の軍隊であり、正式名称を「労農赤軍」と称した。これは旧ロシア帝国軍が崩壊するなかで、ボリシェヴィキ政権が自らの支配を防衛し、国内の反革命勢力や外国軍に対抗するために組織した軍事機構である。ソヴィエト政権と戦時共産主義の体制のもとで、赤軍は労働者・農民を基盤とする大衆軍として編成され、のちにソ連共産党の支配を受ける国家軍隊へと発展し、ソ連崩壊まで長期にわたり重要な役割を果たした。

成立の背景

第一次世界大戦の長期化と社会不安の拡大により、ロシア帝国軍は戦意の低下と離反に見舞われていた。1917年の二月革命・十月革命を経て帝政が倒れると、前線からの脱走兵や農村への復員兵が急増し、旧軍は統制を失った。ボリシェヴィキが権力を掌握すると、新政権は自らを防衛する軍事組織として赤軍の創設に踏み切った。1918年1月、ソヴィエト政府は志願制にもとづく革命軍の編成を宣言し、のちに徴兵制を導入して本格的な常備軍へと拡大していった。

トロツキーと組織化

赤軍の組織化において大きな役割を果たしたのが、人民委員会軍事・海軍人民委員であったレフ=トロツキーである。トロツキーは旧帝政軍の専門将校(いわゆる「軍事スペシャリスト」)を活用しつつ、党への忠誠を保証する政治委員制度を導入して軍の統制を図った。軍事的専門性と革命的忠誠心を両立させるこの方式は、ボリシェヴィキ独裁体制の下での軍隊運営の特徴であり、のちのソ連期にも継承されることになる。

兵員構成と政治委員制度

  • 兵員の中心は農民出身の徴集兵であり、都市の労働者層が幹部候補として重視された。
  • 各部隊には共産党から派遣された政治委員が配置され、軍事指揮官と並列して政治的指導を行った。
  • 政治委員は士気の維持、党の方針の徹底、反革命的傾向の監視などを任務とし、軍隊を通じたイデオロギー支配の要となった。

ロシア内戦と対ソ干渉戦争

1918年以降、ソヴィエト政権は白軍と呼ばれる反革命勢力や地方の反革命政権、さらには列強諸国の干渉軍と激しい内戦を繰り広げた。赤軍は、シベリア・南ロシア・バルト地域など広大な戦線で戦闘を行い、各地の白軍を次第に撃破した。この過程では、チェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)の蜂起が内戦拡大の契機となり、列強はこれを口実に対ソ干渉戦争を行った。日本のシベリア出兵を含む干渉戦争に対しても、赤軍は兵力を集中させて対抗し、最終的に外国軍を撤退に追い込んだ。

戦時共産主義と軍事動員

内戦期のソヴィエト政権は、経済と社会を戦時体制へと全面的に動員するため、いわゆる戦時共産主義政策を採用した。穀物の強制徴発や労働の動員政策は、赤軍への兵站と補給を確保することを主要な目的としていた。農村から徴収された食糧や工業生産物は、優先的に前線の部隊へ送られ、都市住民と兵士を支える基盤となったが、その一方で農民の不満を高め、反乱の一因ともなった。

ブレスト=リトフスク条約と前線の再編

ソヴィエト政府はドイツとの戦争を終結させるため、1918年にブレスト=リトフスク条約を締結した。これにより西部戦線からの圧力は一時的に緩和され、赤軍は内戦と干渉戦争に兵力を集中させることが可能となった。しかし、領土の大幅な割譲と引き換えの講和であったため、ボリシェヴィキ内部でも激しい論争を呼び、ロシア共産党の権力構造や軍事方針に大きな影響を与えた。

プロレタリア独裁と軍隊

赤軍は、マルクス主義理論にもとづくプロレタリア独裁を実現するための暴力装置として位置づけられた。ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国の成立後、軍隊は国家権力と党の指導の下に置かれ、軍人への政治教育、党員の軍隊内での比率拡大などが推進された。このように、赤軍は単なる国防組織を超え、革命の成果を維持・拡大するための手段として理解されたのである。

ソ連赤軍への発展

内戦終結後、赤軍は平時の常備軍として再編され、新たに成立したソヴィエト連邦の軍隊として整備が進められた。1920年代から30年代にかけては、機械化部隊や戦車部隊の創設、大規模な士官教育機関の整備など、近代的軍隊への転換が進行した。その名称は長く「労農赤軍」のまま用いられたが、第二次世界大戦後には単にソ連軍と呼ばれることが多くなり、その起源としての革命期赤軍の経験は、ソ連の軍事文化と国家アイデンティティに強い影響を残した。