薩長同盟|坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介による和解

薩長同盟

尊王攘夷を掲げ倒幕に進む長州藩と、近代化を推し進め幕府とも協力関係にあった薩摩藩とが互いの対立を和解し、薩長同盟を結んだ。土佐の中岡慎太郎や元土佐藩の坂本龍馬が政治的・経済的に仲介役を担い、国力を疲労させる内乱を避け、倒幕に向かう、重要な役割を果たした。薩摩藩小松帯刀西郷隆盛がその交渉にあたり、長州藩は桂小五郎(木戸孝允)がその役をになった。

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目次

長州藩と薩摩藩の対立

長州藩は尊王攘夷を掲げ倒幕をすすめる藩、薩摩藩は近代化を推し進め幕府側にたつことも多い藩であった。八月十八日の政変禁門の変など薩摩藩と長州藩は対立しており、そのため、双方に多くの死者を出していた。
幕府は黒船来航して以来、列強の圧力にさらされ、日米修好通商条約など、いわゆる安政の五カ国条約という不平等条約を結ばされる。さらに長州藩は下関戦争で、薩摩藩薩英戦争で欧米列強に屈し、その軍事力を目の当たりにする。両藩は倒幕を果たし、新しい政権を担わなければ成らない、という意識が、対立していた長州藩や薩摩藩の両者に芽生えた。

長州藩の下関戦争

長州藩は下関戦争で欧米列強との圧倒的な軍事力の前で敗北した。長州藩は尊王攘夷の思想が強かったが、その限界を自覚することになる。高杉晋作率いる奇兵隊が決起して保守派から主導権を握ると藩論は倒幕に向かった。

薩摩藩の薩英戦争

薩摩藩は、当時世界に先駆けて産業革命を果たしたイギリスと生麦事件をきっかけに薩英戦争が起る。薩摩藩は、イギリスの艦隊を退けたものの、その軍事力には圧倒的な脅威を感じ、イギリスとの関係の中から産業や軍事の近代化を推し進めた。

勝海舟と坂本龍馬

勝海舟と坂本龍馬

坂本龍馬

元土佐藩士の坂本龍馬薩摩藩と長州藩の仲介役を担った。坂本龍馬薩摩藩と長州藩の保護のもと、長崎で亀山社中(のちの海援隊)という海運・貿易業を営んでいた。当時、長州藩は、倒幕のために新式の武器を必要としていた。 それを知った坂本龍馬は、7300の銃や弾薬を薩摩藩の名義でイギリスから輸入し、その見返りとして長州藩は兵糧米を薩摩藩に提供するという現実的な条件を提示した。その結果、長州藩は亀山社中を通して、イギリス人貿易商のグラバーから武器を購入した。坂本龍馬による経済交流は薩長の和解を促した。

勝海舟

薩摩藩の西郷隆盛は長州征討(第一次)のとき、幕府の軍艦奉行であった勝海舟と面会し、このとき勝海舟は、これからは幕府を中心とする政治ではなく、 薩摩藩や長州藩などの雄藩連合政権を樹立することを西郷隆盛に述べていた。勝海舟の思想は、西郷隆盛に影響を与え、後の薩長同盟につながる。また坂本龍馬勝海舟の門下生にあたり、勝海舟の新しい日本への意識は薩長同盟の立役者達に重要な役割を与えた。

中岡慎太郎

中岡慎太郎

中岡慎太郎

土佐藩の中岡慎太郎坂本龍馬とともに薩長同盟に動いた。実質的に薩長同盟の構想を立案し、中岡慎太郎は実務的にも指導的にも重要な役割を果す。

薩長和解

薩摩藩と長州藩と経済的に交流が進んだため、「薩長和解」が進んだ。第二次長州征伐の後、一度、中岡慎太郎坂本龍馬の手配で薩摩藩西郷隆盛と長州藩の桂小五郎との間で和解交渉の場を設けるが、中岡慎太郎が説得したにもかかわらず西郷隆盛が来なかった。坂本龍馬桂小五郎は二週間待ち続けたが、中岡慎太郎だけが来て、西郷隆盛は大阪に向かってしまい、桂小五郎の面目は丸潰れるという結果となった。

薩長同盟の締結

中岡慎太郎西郷隆盛は、もう一度、会う機会をもうけることになる。慶応2年(1866)1月8日、桂小五郎は京都の小松帯刀の邸宅に入り、西郷隆盛も小松邸に入った。2人は小松邸で会ったが、薩長同盟のことに触れずに時がたったと言われている。坂本龍馬が10日遅れて京都に入ったが、お互いの面子をいまだ薩長同盟の話は進んでいなかった。a href=”/坂本龍馬”>坂本龍馬は桂小五郎西郷隆盛小松帯刀との仲介を行い、薩長同盟が結ばれる。

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