防人|北九州の防備に置かれた東国出身の兵士

防人

防人とは、古代、九州北部防備のために置かれた兵士で、大宰府に防人司が置かれた。大化前代以来の舎人制を引き継いだ制度で、663年(天智天皇)の白村江の敗戦以降に整備された。東国出身のものが大半を占めている。防人は難波に集結して、海路で大宰府に送られたが、負担が重く、逃亡・忌避する者も多かった。

目次

大宝律令

大宝律令によって軍団兵士制が確立した。防人はその中に組み込まれた。当初は、諸国の兵士を3年交替であたらせたが、730(天平2)年に東国の兵士に限った。

防人の数と期間

防人の数は3000人とみられている。防人として太宰府に下った者は、3年間、九州の北部で防衛を命じられたが、3年勤務で交代するという期間は守られないことも多く、帰郷出来ない者もおおかった。

防人の負担

防人は調・庸・雑徭などの負担は免除された。防人の大半は東国の者で、難波(現在の大阪)に集結して、海路で大宰府に送られたが、武装や食料は自己負担であったため、その負担は極めて重く逃亡した者も多かった。

防人の歌

『万葉集』巻20には東国防人が出征の情や別離の情を詠んだ、防人歌が100余首集録されている。

唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず

韓衣裾に取り付き泣く子らを置きとぞ来ぬや母なしにして

防人に 行くは誰が夫と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひせず

父母は 頭かき撫で 幸くあれて いひし言葉ぜ 忘れかねつる

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