トーマス・ブレーク・グラバー|坂本龍馬、亀山社中、薩長同盟

グラバー T.B.Glover

トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838年6月6日 – 1911年12月16日)は、幕末から明治時代にかけて日本で活躍したスコットランド出身の商人である。1859年に来日し、長崎にグラバー商会を設立した。石油やお茶の販売をしていたが、武器商人として倒幕派の諸藩に最新鋭の兵器や艦船を供給し、明治維新に決定的な影響を与えただけでなく、日本の近代化において造船、炭鉱開発、鉄道、ビール産業など多岐にわたる分野で重要な役割を果たした。彼の邸宅跡は現在も「グラバー園」として残されており、幕末期の日欧関係史における象徴的な人物として知られている。なお、グラバーが売った37%の兵器が討幕に使われた。フリーメーソンのメンバーとされる。妻「つる」は日本人で息子は倉場富三郎。

来日とグラバー商会の設立

1859年、グラバーは21歳の若さで上海を経て日本へ渡り、開港されたばかりの長崎に居留した。当初はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として茶や絹の輸出を行っていたが、日本国内の緊迫した情勢と諸藩の軍備増強の必要性に商機を見出し、1862年に自らの会社である「グラバー商会」を設立した。幕末の動乱期において、西洋の最新鋭の小銃や大砲、火薬、そして軍艦などを次々と輸入し、販売する事業で莫大な利益を上げた。彼の商会は当時の日本における最大の武器輸入商社の一つとなり、幕府や雄藩の軍事力強化に深く関与することとなった。とりわけ、彼の取り扱う武器は最新の技術が用いられており、軍事的な優位性を確保したい各藩からの需要は絶えなかった。

グラバー邸

文久3年(1863)、最古の西洋建造物。ここに隠し部屋があるが、近藤長次郎や、長州の伊藤博文坂本龍馬らがここで商談したと言われている。

薩長両藩への支援と倒幕運動への関与

グラバーの事業は単なる商業活動にとどまらず、日本の政治的な転換期において歴史を動かす原動力となった。彼は坂本龍馬が率いる海援隊(旧亀山社中)と緊密な取引を行い、彼らのネットワークを通じて倒幕の中心となる薩摩藩長州藩に大量の武器を供給した。また、江戸幕府の厳しい鎖国政策と海外渡航の禁令を破り、伊藤博文井上馨ら長州五傑(長州ファイブ)のイギリスへの密航留学を密かに手引きし、資金面や渡航の手配を全面的に支援したことでも知られている。さらに五代友厚をはじめとする薩摩藩士の海外派遣や、薩摩藩の紡績機械の輸入にも協力し、倒幕運動から明治政府の創設を担う若き志士たちの見聞を広め、強力な後盾となった。

薩摩藩との取引

薩摩藩はイギリスのゴロウル商社(ジャーディン・マセソン商会がグラバーを代理人として設立した商社)とオランダ貿易会社の代理人ボードウィンとの間に契約を結び、彼らから資金を導入して公益のファンドを設立、外資を基盤とした薩摩商社を作り資金を蓄え、討幕の資金作りを行った。

ユニオン号

1863年、長州の伊藤博文井上馨は長州軍の近代化に向けて、長崎に出張していた小松帯刀と面会し、武器購入の話しをした。小松帯刀は快諾し、グラバーと交渉し、ゲベール銃3000挺、ミネー銃4300挺の購入を決定した。9万2000両余りの商談となった。8月下旬に幕府の目を避けて汽船で三田尻に運んだ。さらに薩摩藩はグラバーから汽船ユニオン号(70馬力、205トン)(薩摩藩名は桜島丸。長州の所有となってからは乙丑丸)も購入した。これは6万ドルで薩摩藩が購入し、それを長州に譲るという段取りで8月26日に下関で引き渡される。この成果は、第二次長州征伐で発揮し、長州軍は、数にまさる幕府軍を圧倒することになる。

日本の近代化と産業振興への多大な貢献

明治維新が成立し、国内の動乱が収束すると、グラバーは武器商人としての役割を終え、日本の近代産業の育成に全力を注いだ。1865年には長崎の海岸通りで日本初の蒸気機関車(アイアンデューク号)を走らせ、鉄道の有用性と西洋技術の驚異を日本の人々に広く知らしめた。また、西洋式の近代的採炭技術を導入して高島炭鉱を開発し、日本のエネルギー産業の基礎を築いた。さらに、小菅修船場(日本初の洋式スリップ・ドック)の建設など造船業にも投資を行った。これらの事業には巨額の資本が必要であったため、1870年にグラバー商会は破産へと追い込まれたが、彼の先見性のある事業の多くは、後に岩崎弥太郎が創設した三菱財閥へと引き継がれ、日本の資本主義の基盤を形成する上で欠かせない要素となった。

キリンビールの基礎と三菱の顧問としての晩年

破産後もグラバーは日本に留まり、豊富な海外人脈と深い見識を買われて三菱の顧問として日本の産業近代化を支え続けた。その中でも特筆すべき業績の一つが、ビール産業への貢献である。彼は1885年にジャパン・ブルワリー・カンパニーの設立に重役として参画し、現在のキリンビールの基礎を築いた。ビールのラベルに東洋の想像上の動物である「麒麟(キリン)」が採用された背景には、彼の提案があったとも言われている。晩年は東京に移り住み、1908年には外国人として破格の栄誉である勲二等旭日重光章を受章した。1911年に73歳でこの世を去るまで、彼は日本を深く愛し、近代化という壮大なプロジェクトに生涯を捧げた。

家族と残された歴史的遺産

グラバーは公の業績のみならず、その私生活においても日本と深く結びついていた。彼は日本人の女性であるツルと結婚し、娘のハナと息子の倉場富三郎(トミー)をもうけた。富三郎は後に長崎の地域社会において重要な役割を果たし、水産業の発展や魚類図譜「グラバー図譜」の編纂に尽力した。また、長崎の南山手町に建設された邸宅(旧グラバー住宅)は、日本最古の木造洋風建築として現在も美しい姿で保存されている。この邸宅の隠し部屋は、かつて彼が数々の志士たちをかくまい、密会を重ねた歴史的な舞台であると語り継がれており、現在は世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一部として、多くの人々に幕末の息吹を伝えている。

グラバーの主な業績一覧

  • グラバー商会の設立と西洋兵器の輸入販売による諸藩の近代化支援
  • 長州ファイブ(伊藤博文ら)や薩摩藩士の英国密航留学の斡旋と資金援助
  • 日本初の西洋式近代炭鉱である高島炭鉱の開発とエネルギー産業の創始
  • 日本初の蒸気機関車「アイアンデューク号」の試験走行(長崎)
  • 日本初の洋式スリップ・ドックである小菅修船場の建設
  • ジャパン・ブルワリー・カンパニー(現・キリンビール)の設立参画

生涯年表

出来事
1838年 スコットランドのアバディーンシャー州に生まれる。
1859年 21歳で来日し、長崎に居留して商業活動を開始する。
1862年 グラバー商会を長崎に設立する。
1863年 長州藩士5名のイギリス留学を密かに支援する。
1865年 薩摩藩士のイギリス留学を支援。長崎で蒸気機関車を走らせる。
1868年 高島炭鉱の開発に着手し、小菅修船場を完成させる。
1870年 グラバー商会が破産。以降、三菱の顧問として活躍する。
1885年 ジャパン・ブルワリー・カンパニーの設立に参画する。
1908年 長年の功績により勲二等旭日重光章を受章する。
1911年 東京にて73歳で死去。遺骨は長崎の坂本国際墓地に埋葬される。

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