禁門の変(蛤御門の変)
禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に京都において発生した大規模な武力衝突事件である。主に長州藩の勢力が、京都守護職を務める会津藩や、それを援護する薩摩藩を中心とする幕府側の軍勢と、京都御所の周辺で激しい市街戦を繰り広げた。激戦地となった御所の門の一つである蛤御門(はまぐりごもん)の名をとって「蛤御門の変」とも呼ばれる。この戦いの結果、長州側は敗退し、彼らが放った火や幕府側の砲撃によって京都市中の広範囲が焼失する「どんどん焼け」が引き起こされた。本事件により、長州藩は朝廷に弓を引いた「朝敵」としての立場を明確にされ、その後の幕末の政治動向に決定的な影響を与えた。

禁門の変
禁門の変(蛤御門の変)の概要
禁門の変とは、元治元年1864年、長州軍による京都御所への襲撃をいう。池田屋事件の知らせが長州に届くと長州の家老たちは1600人の兵を連れて京都へ出陣した。7月長州軍は京都御所の周りに布陣し、御所に向かって攻撃を始める。結果、会津藩と薩摩藩の両軍に防がれ、敗退することとなる。長州は御所を攻撃したため、朝敵となり、激怒した孝明天皇は第一次長州征伐を行う。
禁門の変の略年
元治元(1864)年
6月 長州藩の世継毛利定広、福原越後・国司信濃・益田右 衛門介ら三家老、真木和泉・久坂玄瑞らの軍勢長州出発
6月24日
福原隊、伏見の長州藩邸に入る、益田国司・来島又兵衛ら遊擊隊、浪士隊が山崎到着。
6月27日
国司・遊撃隊は分かれて天竜寺に入る。
事件の背景
文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変の後、急進的な尊皇攘夷派であった長州藩は京都の政治舞台から追放され、多くの尊攘派公家も都を落ち延びることとなった。京都を追われた長州藩の尊王攘夷派らは、公武合体派の分裂に乗じて、長州藩の福原越後、国司信濃、益田右衛門介の三家老や真木和泉、久坂玄瑞率いる浪士ら千数百人の軍勢が再び京都に出兵した。さらに翌年の元治元年(1864年)6月、新選組によって潜伏中の尊攘派志士たちが多数殺傷・捕縛される池田屋事件が発生したが、それが禁門の変の契機となる。これに激昂した長州藩内の強硬派は、藩主・毛利敬親の雪冤(罪をすすぐこと)と、京都守護職・松平容保の排除を掲げ、大挙して上洛を開始した。彼らは伏見、嵯峨、山崎などに陣を敷き、朝廷に対する嘆願を試みたものの、一会桑政権(一橋慶喜、松平容保、松平定敬)の強硬な姿勢により武力による排除が決定された。
徳川慶喜の決断
1864年7月18日、徳川慶喜は深夜からの御所での朝議に参列し、長州軍討伐の勅許を要請し、翌19日未明、会津・桑名両藩に出勤を命じた。長州軍が京都御所に到達すると、幕府と朝廷は一橋慶喜を中心に御所の各門を固めた。
両軍の主要な陣容
この戦いにおいて、京都の防衛にあたった幕府側と、上京した長州藩側の主要な布陣や指揮官は以下の通りであった。両陣営ともに当時の日本において有数の軍事力を誇る大藩が激突する形となった。
| 陣営 | 主要な参加藩・部隊 | 主な指揮官・人物 |
|---|---|---|
| 幕府側 | 会津藩、薩摩藩、桑名藩、新選組、大垣藩など | 松平容保、一橋慶喜、西郷隆盛 |
| 長州側 | 長州藩兵、尊皇攘夷派浪士(遊撃隊など) | 来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉、国司親相 |

真木和泉・久坂玄瑞
戦闘の経過
1864年7月18日、すでに長州軍は三方に分かれて御所を目指しており、夜、福原隊は先駆けて伏見街道を北上を開始した。7月19日の未明、京都御所の西側や南側を中心として、長州軍と幕府側諸藩の軍勢との間で一斉に戦闘が開始された。 長州軍は御所の門である中立売門や下立売門など各所から突入を試みた。なかでも最も激しい戦闘となったのが蛤御門周辺である。当初、長州側の来島又兵衛率いる部隊が会津藩兵を圧倒し、一時は門内に侵入する勢いを見せた。しかし、西郷隆盛らが率いる薩摩藩の援軍が到着し、側面からの銃撃を開始したことで戦局は一変する。 来島又兵衛が銃弾に倒れ、指揮官を失って総崩れとなった長州軍は退却を余儀なくされた。また、鷹司邸に立て籠もった久坂玄瑞や寺島忠三郎らも、多勢に無勢の中で火を放ち自刃を遂げた。天王山(山崎)に陣を構えていた真木和泉らも殿軍を務めた後に自刃し、禁門の変は長州側の完全な敗北で幕を閉じた。
戦後の影響
禁門の変における敗北により、長州藩は天皇の居所である御所に向かって発砲したとして、正式に「朝敵」の烙印を押された。この影響は甚大であり、幕末の政治情勢をさらに激化させる要因となった。主な事後処理や影響は以下の通りである。
- 第一次長州征伐の勃発:幕府は諸藩に動員令を下し、長州藩に対する大規模な武力討伐(第一次長州征伐)を行った。
- 京都の大火:戦闘の最中に発生した火災は、折からの強風に煽られて京都市中の約3万戸を焼失させる「どんどん焼け」を引き起こし、民衆に多大な被害を与えた。
- 尊皇攘夷運動の転換:武力による直接的な政局奪還が困難であることを悟った志士たちは、単なる攘夷から幕府そのものを倒す倒幕へと目標を明確化していくこととなる。
歴史的意義
禁門の変は、単なる一藩の暴走による武力衝突ではなく、幕末の日本が旧体制から近代国家へと移行する過程で避けて通れなかった大規模な内乱の一つである。特に、この戦いにおいて血みどろの対立関係にあった長州藩と薩摩藩が、互いの強大な軍事力を実戦で認識し合い、後に坂本龍馬らの仲介を経て薩長同盟を結ぶに至る遠因となった点は、日本史において極めて重要な意味を持つ出来事であったと評価されている。
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