禁門の変(蛤御門の変)|第一次長州征伐,池田屋事件,真木和泉,久坂玄瑞

禁門の変(蛤御門の変)

禁門の変とは、元治元年1864年、長州軍による京都御所への襲撃をいう。池田屋事件の知らせが長州に届くと長州の家老たちは1600人の兵を連れて京都へ出陣した。7月長州軍は京都御所の周りに布陣し、御所に向かって攻撃を始める。結果、会津藩と薩摩藩の両軍に防がれ、敗退することとなる。長州は御所を攻撃したため、朝敵となり、激怒した孝明天皇は第一次長州征伐を行う。

禁門の変

禁門の変

目次

禁門の変の略年

元治元(1864)年
6月 長州藩の世継毛利定広、福原越後・国司信濃・益田右 衛門介ら三家老、真木和泉・久坂玄瑞らの軍勢長州出発
6月24日
福原隊、伏見の長州藩邸に入る、益田国司・来島又兵衛ら遊擊隊、浪士隊が山崎到着。
6月27日
国司・遊撃隊は分かれて天竜寺に入る。

長州藩

1863年の政変の後、京都を追われた長州藩の尊王攘夷派らは、公武合体派の分裂に乗じて、長州藩の福原越後、国司信濃、益田右衛門介の三家老や真木和泉、久坂玄瑞率いる浪士ら千数百人の軍勢が再び京都に出兵した。

池田屋事件

1864年の池田屋事件が禁門の変の契機となる。新選組が京都三条河原町の池田屋に集合した尊王攘夷派を殺傷するという池田屋事件の知らせが長州に届くと、長州は京都に兵を進めることを決定した。

徳川慶喜の決断

1864年7月18日、徳川慶喜は深夜からの御所での朝議に参列し、長州軍討伐の勅許を要請し、翌19日未明、会津・桑名両藩に出勤を命じた。
長州軍が京都御所に到達すると、幕府と朝廷は一橋慶喜を中心に御所の各門を固めた。

福原隊が北上する

1864年7月18日、すでに長州軍は三方に分かれて御所を目指しており、夜、福原隊は先駆けて伏見街道を北上を開始。
7月19日、藤森で大垣藩兵らと激突するが大敗した。再び竹田街道を北上したが、伏見丹波で彦根・会津藩と交戦し、大敗し、山崎方面に敗走する。

国司隊が西から蛤御門に向かう

1867年7月19日、嵯峨天竜寺の国司隊は西から御所に接近して蛤御門に向かったが、門を守る会津藩兵と激突する。一時時は御所内に入つたものの、乾門を守っていた薩摩藩・桑名藩の援軍により敗退した。

真木和泉・久坂玄瑞

真木和泉・久坂玄瑞

益田・浪士隊(真木、久坂ら)は御所の南、堺町御門に

山崎の益田・浪士隊(真木和泉、久坂玄瑞ら)は御所の南、堺町御門に向かい、御所隣の鷹司邸で桑名・彦根藩兵と激しい戦闘に及ぶが撃退され、久坂玄瑞は自刃した。後詰めの益田隊は敗退した長州藩兵に巻き込まれ、総崩れし、真木和泉も自刃するに至る。

第一次長州征伐へ

御所周辺には火災が広がり甚大な被害を出した。孝明天皇はこれに激怒し、7月21日 第一次長州征伐を命じた。

中岡慎太郎

元土佐藩であった中岡慎太郎は、長州の公家を護衛したが、敗走している。

蛤御門

西側の門は、“焼かないと開かない”という意味で蛤御門と呼ばれた。

赦免嘆願

この間、福原や真木らは、前年の政変で処罰を受けた三条実美や謹慎中の藩主毛利敬親の赦免嘆願を行つていたが、長州藩撤兵を条件とした徳川慶喜の意見が通り、嘆願は拒否される。