木戸孝允(桂小五郎)|長州藩,維新の三傑

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎)は幕末・明治初期を代表する政治家である。長州藩士。藩政の中心として、幕末期の長州藩を主導し、西郷隆盛大久保利通と共に維新の三傑と称された。松下村塾で学び、積極的に攘夷を唱えながらも、開明的な外交論を持っていたと言われる。明治新政府では五箇条の誓文を起草、版籍奉還・廃藩置県などを実現した。また、岩倉使節団に副使として参加し、欧州の立憲主義を日本に持ち帰り法整備を行った。

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎)

目次

木戸孝允(桂小五郎)の生涯

1833年 長州藩医の和田昌景の次男として誕生
1849年 吉田松陰松下村塾にはいる。
1860年 水戸藩の西丸帯刀と丙辰丸盟約を結ぶ
1864年 京都留守居役となる
1868年 王政復古の大号令。参与となる。五箇条の誓文を起草
1869年 版籍奉還を実現。
1871年 廃藩置県実現
1871年 岩倉使節団の副使として遣欧
1873年 明治六年の政変。西郷隆盛ら征韓派の参議を辞職させる
1874年 台湾出兵に反対して下野
1875年 大阪会議。板垣退助とともに政界復帰
1877年 5月8日 病死。43歳であった。

木戸孝允誕生の地

木戸孝允誕生の地

出生から松下村塾へ

1833年6月8日、木戸孝允(桂小五郎)は、長州藩医の和田昌景の次男として長州藩の萩に生まれた。やがて、1840年に桂九郎兵衛の養子となり、桂家を継ぐことになる。1849年に吉田松陰が荻に開いた松下村塾に入門した。松下村塾では奇兵隊を作った高杉晋作や尊王攘夷派の久坂玄瑞、明治政府では初代総理大臣をつとめる伊藤博文らと交流を持った。

松下村塾

松下村塾

江戸へ遊学

1852年に江戸へ遊学し、神道無念流・斎藤弥九郎(さいとうやくろう)の道場に入り、塾頭にまでなった。らに下田奉行所与力の中島三郎助(なかじまさぶろうのすけ)に造船技術を、長州藩士の手塚律蔵(てづかりつぞう)や美濃の神田幸平(かんだこうへい)のもとで蘭学を学んだ。1859年、有備館(江戸長州藩邸の藩校)の責任者となる。長井雅楽の「航海遠略策」(開国して将来的に海外雄飛を行なう)に久坂玄瑞らと共に反対する姿勢を示した。

丙辰丸盟約

丙辰丸条約とは、1860年7月8日に江戸湾上の長州藩の丙辰丸の船上で、水戸藩士の西丸帯刀と長州藩の木戸孝允(桂小五郎)のあいだで、桜田門外の変後の幕政改革での役割についての盟約であるが、これを機会に反幕的政治活動を行うようになった。次第に同じ長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らと並ぶ尊王攘夷派として頭角を現した。残念ながら、丙辰丸盟約は互いを信頼していなかったため、実行されることはなかった。

開明的な外交論

勝海舟坂本竜馬らとも親交を持ち、 開明的な外交論を持つようになった。

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎)

八月十八日の政変

1863年の八月十八日の政変では、長州藩は京都から追放されたが、木戸孝允(桂小五郎)は京都に残り、長州藩の信頼回復に努めた。

池田屋襲撃

新選組による池田屋襲撃が行われた日の会合にも出席することになっていたが、誰も来ていなかったため近くの対馬藩邸に出向き、難を逃れている。

禁門の変

1864年、京都留守居役となり、京都にて周旋工作を行なう。この時期、長州藩内部では京都まで出兵して八月十八日の政変以来の雪辱を晴らそうとする過激派の主張が起こり、木戸孝允(桂小五郎)はこれを止めさせようとしたが叶わず、結局は長州藩が京都まで出兵して禁門の変禁門の変で長州藩は大敗し、「朝敵」(朝廷の敵)となって幕府の長州征伐を引き起こすことになった。木戸孝允(桂小五郎)は、京都を逃れて但馬出石に潜伏した。

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎)

木戸貫治

1864年9月に藩主から木戸姓をもらい、それまでの桂姓から木戸貫治と開明した。

高杉晋作の挙兵

慶応元年(1865年)、一時は反対派(木戸孝允(桂小五郎)らは「俗論党」と呼んでいた)によって長州藩内を掌握されたが、高杉晋作の挙兵によって形勢挽回し、高杉晋作らによって木戸孝允(桂小五郎)は帰藩できた。帰藩後の木戸孝允(桂小五郎)は、長州藩政の中心となり、幕府の要求などに対峙していくことになる。

明治維新へ

坂本龍馬中岡慎太郎の土佐浪士などの斡旋もあり、慶応2年(1866年)に京都の薩摩藩邸に入り、小松帯刀西郷隆盛(西郷吉之助)らと会談し、今後予想される幕府による長州藩侵攻についての対策を話し合いった結果、薩長同盟(薩長盟約)を締結する。

五箇条の誓文の起草

幕長戦争で幕府を退けた長州藩は、1867年12月の王政復古の大号令で京都入りを許された。明治元年(1868年)、京都に出て大政館に出仕する。五箇条の誓文の起草に携わり、参議として活躍した明治政府の基本方針の確立に尽力した。

幾松との結婚

禁門の変で敗れた木戸孝允(桂小五郎)は、但馬出石に潜伏してたが、身なりを変え二条大橋の下に隠れる。木戸孝允(桂小五郎)のもとに食事を運んだり、新選組近藤勇に追われる木戸孝允(桂小五郎)をたびたび救ったのは松子と呼ばれる女性あった。下着姿にされても木戸孝允(桂小五郎)の行方を言わなかった。松子は京都で舞妓となり、やがて幾松と名乗るようになった。木戸は身を隠していた出石で13歳の八重子と結婚したが、幾松に長州藩に戻るよう説得し、二人は別れ、長州に戻ることになる。明治維新になり、幾松と結婚した。

版籍奉還

木戸孝允(桂小五郎)は版籍奉還の実現にも貢献した。版籍奉還とは、全国の領主(大名)が土地と人民を天皇に奉還するというものである。明治政府のトップであった三条実美や岩倉具視へ熱心に建言して、大久保利通・板垣退助・大隈重信などの協力で実現させた。

廃藩置県

1871年、廃藩置県を実現させる。当時鹿児島にいた西郷隆盛が、岩倉具視や大久保利通の招きに応じて鹿児島県士族を率いて上京した。鹿児島・山口・高知県から集められた兵力を御親兵として、この軍事力を背景に廃藩置県は断行されることになったが、事前の計画は木戸孝允(桂小五郎)をはじめ西郷隆盛大久保利通など数名しか知らなかった。

岩倉使節団

廃藩置県の断行後、木戸孝允(桂小五郎)は「岩倉使節団」の副使として外遊の旅に出る。各国を遊歴して、ヨーロッパの憲法制度などを熱心に学び、日本における立憲制の導入を主張するようになる。

征韓論の反対

1873年、日本に帰国する。この頃、持病により閣議を欠席していたが、「明治六年政変」では内治優先を唱えて、征韓論的な主張に反対している。

幾松

幾松

台湾出兵に反対

1874年、政府の台湾出兵に反対して下野する。

大阪会議

1875年、大阪会議にて漸次的に立憲制の導入を図るという政府方針に合意し、板垣退助と共に政府に復帰する。

内閣顧問

1876年、再び政府の方針に不満を持ち、持病の悪化も重なって内閣顧問に転じた。

死去

1877年、西南戦争に伴い政府が京都に移動したため、駐在していたが、病状が悪化して死去した。

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