大化改新|中臣鎌足と中大兄皇子による改革

大化改新

645年(大化1)の蘇我氏滅亡から649年(大化5)の中央官制整備ころまでを、大化改新という。中大兄皇子(天智天皇)中臣鎌足を中心に行われたが、大化改新の目的は、氏姓制度を廃して中央集権国家をつくることにあったが、その目的は、改新の詔にみられる、土地人民の私有を廃して国家に収める公地公民制をとり、それに基づいて班田収授法を施行することであった。それとともに、政治の仕組みも根本的に変革され、姓による世襲を廃して新しく官職や位階が設けられることになる。

目次

蘇我氏の躍進

622年の厩戸王(聖徳太子)の死後、蘇我氏は再び権勢をふるった。この蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(えみし)は、聖徳太子の子である山背大兄王を押さえて舒明天皇(在位629~41)を擁立した。そのころ、中央の政治は大臣・大連を中心とし、大夫(まえつきみ)といわれる廷臣の合議によって行われていた。舒明天皇のときは政局も比較的安定していたが、舒明天皇のあと、蘇我蝦夷は舒明天皇の皇后であった女帝の皇極藤天皇(こうぎゃく)(在位642~45)を立てると、蘇我蝦夷(えみし)の子、蘇我入鹿(いるか)が政治にあたるようになると、蘇我入鹿の専横が目立つようになる。さらに643年に蘇我入鹿が山背大兄王を襲って滅ぼすと、不満は極まり、反発する動きがあらわれた。蘇我蝦夷はこの息子の横暴に涙したと言われる。

乙巳の変

中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足は反蘇我派の阿倍内麻呂(うちのまろ)や蘇我倉山田石川麻呂らとともに、蘇我入鹿に報復を企てた。645年に蘇我入鹿を大極殿にて暗殺した。このことを聞いた蘇我蝦夷も、自邸に火を放って自殺し、蘇我氏は滅亡の一途をたどることになる。

新政府

蘇我氏の滅亡により、皇極天皇に代わって弟の軽皇子が即位して孝徳天皇(在位645~54)となる。乙巳の変を企てた中大兄皇子は皇太子として政治にあたった。皇太子は、年号を大化とし、ここから始まる改革を大化改新と呼ばれる改革が始まる。

国際情勢

国際情勢では、中国では隋が滅亡し、唐が日増しに強大化する、帰朝した遣唐使や留学生らによって伝えられ、とくに644年から翌年にかけての唐の太宗(李世民、在位626~49)による大々的な高句麗遠征の報がもたらされると、国内での危機感が強まり、天皇中心の強固な集権国家をつくる必要が痛感されるようになった。

大化改新

645(大化1)年、大和の飛鳥から難波(大阪府)の長柄豊崎宮へ遷都を行う。続いて政治の側近を担う左右大臣、内臣、国博士を設置した。東国の国司を派遣、鐘置設置(人々が訴えを聞く)、男女の法(通婚による子の帰属について)、諸国の武器の収公、戸籍の作製を行い、律令国家としての体制を整えた。

  • 左大臣:阿倍内麻呂
  • 右大臣:蘇我倉山田石川麻呂
  • 内臣:中臣鎌足
  • 国博士:高向玄理・僧旻

改新の詔

646(大化2)年正月、大化改新の方針を述べた改新の詔が発布される。なお、改新の詔は『日本書紀』に記載されているが、文体・内容ともに整いすぎぎていること、その後の令の内容に酷似していることなどによって、『日本書紀』の編者が造作したものではないかという説が有力である。

改新の詔 第1条

第1条では公地公民の制が述べられ、王族や豪族の土地・人民の所有を禁止し、豪族に食封の支給を定めたものである。皇室や豪族の私有地である屯倉・田荘、私有民である子代・部曲などを廃止して国家に収める。そのかわりに大夫以上に食封、それ以下には布品を与えた。

改新の詔 第2条

第2条では地方行政組織について述べ、京師、畿内、国、郡、里という地方都市を定め、中央集権的な政治体制を定めた。そのほか、駅馬・伝馬・鈴契などの交通関塞・防人などの軍事に関する諸制度も定められた。

改新の詔 第3条

第3条では班田収授法について述べられ、戸籍・計帳をつくり、里長を置き、人々に収公した土地を口分田として班給し、租を取ることにした。しかし、実際に戸籍が作られたのは、670年の天智天皇の政権下である。

改新の詔 第4条

第4条では新しい統一税制について述べられている。田の調(みつき)、戸別の調(みつき)、官馬(かんば)、仕丁(しちょう)、傭布(ようふ)、傭米(ようまい)、采女(うねめ)の制を定めた。

冠位制定

647年、聖徳太子は冠位十二階を改め、七色十三階からなる新しい冠位制が設定された。大臣や地方豪族をも授位範囲に含むもので、臣下はすべて官僚制に組み込むことになった。648年、古冠を廃止、649年には19階に拡大、中央官制の整備(八省百官を置く)する。

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