中大兄皇子(天智天皇)|大化改新と蘇我氏の滅亡

中大兄皇子(天智天皇)

中大兄皇子(天智天皇)は大和国(奈良県)に舒明天皇の皇子として生まれる。中臣鎌足との協力の下で、蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から始まる大化の改新を行った。天皇中心の中央集権国家づくりを目指した。権力の集中を背景に都を大津に移して戸籍や近江令を定めた。

目次

中大兄皇子の略年

626年 舒明天皇の皇子として誕生する
645年 飛鳥板蓋宮正殿で蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)。改新政府では皇太子となり、改革を主導する
646年 改新の詔を出す
663年 白村江の戦い
667年 都を近江大津宮に遷す。近江令を制定(異説あり)
668年 即位
671年 崩御

乙巳の変

乙巳の変とは、中大兄皇子・中臣鎌足による蘇我入鹿の暗殺事件である。父の蘇我蝦夷は自害し、蘇我本宗家は滅亡した。
645年(皇極4・大化1)6月2日、雨天、飛鳥板蓋宮において、皇極天皇出席のもと蘇我入鹿をはじめ群臣が一堂に会し、三韓(高句麗・百済・新羅)からの貢ぎ物を奉儀式が行われていた。蘇我倉山田石川麻呂の上奏文の朗読が終わろうとしたとき、中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を襲い殺害した。

蘇我氏の強権政治

蘇我入鹿蘇我蝦夷が政治的権力を集中しており、天皇は実質、力を持っていなかった。643年(皇極2)、蘇我入鹿厩戸王(聖徳太子)の子である山背大兄王を殺害すると、強権政治の色合いは増していった。 こうした情勢下、中大兄皇子や中臣鎌足らを中心に蘇我氏に不満を募らせていく。また、唐の興隆や朝鮮半島の内紛という国際情勢が緊迫するにつれ、連合国から統一国家体制への実現がせまった。

中臣鎌足

中大兄皇子は、蘇我氏の圧政に不満をもった中臣鎌足と協力関係を築く。そのほか、蘇我氏に不満をもつ者を集め、蘇我氏への殺害の計画を進めた。殺害が成功していこう、中臣鎌足は中大兄皇子とともに実権を握り、大化改新を進めた。

飛鳥板蓋宮正殿

『多武峯縁起絵巻』

『多武峯縁起絵巻』

蘇我入鹿が暗殺されたのは飛鳥板蓋宮正殿だった。入鹿を討っているのが中大兄皇子で、弓矢をもっているのが中臣鎌足。蘇我本宗家は滅び、実権は天皇家に戻った。

改新の詔

中大兄皇子は蘇我氏を打倒後も、天皇の位には就かなかった。しかし、孝徳・斉明の両天皇の皇太子として実権を握り、地公民制の実施などの改新の詔を発布して大化改新を進め、律令国家の体制を強化していく。

崇福寺址

崇福寺址

崇福寺址

崇福寺址(滋賀県大津市)は天智天皇(中大兄皇子)によって創建された。

蘇我倉山田石川麻呂の殺害

蘇我倉山田石川麻呂は、大化改新の功臣の一人だったが、中大兄皇子の妃の父で、のちの持統天皇の外祖父にあたる。649年、阿倍内麻呂の死の直後、蘇我日向の霊言により自殺に追いこまれた。官職の世襲制否定に反対したためといわれる。

皇子有間皇子の殺害

654年、孝徳天皇が崩御すると、中大兄皇子は皇極天皇を再び即位させて斉明天皇(在位655~61)とし、自身は、皇太子として政務を行う。このころには、大化改新の中心人物であった、阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂・南淵請安・高向玄里らは死亡し、中大兄皇子と中臣鎌足の二人のみで権力を独占していた。中大兄皇子の独裁色が強まると、大造営工事を行ったが、新政府に対する批判が強まることになる。中大兄皇子の専制化が進むと、658年、孝徳天皇の皇子有間皇子が謀反の疑いで殺された。

有間皇子

孝徳天皇の長子で、皇位継承の筆頭者だったために中大兄皇子に警戒された。658年、蘇我赤兄が有間皇子に謀反をすすめたことでその夜のうちに捕らえられ、皇子は紀伊に送られる途中で殺された。

蝦夷征討

阿倍比羅夫(あべのひらふ)による蝦夷征討が行われた。大化改新以降、東北経営の前進基地として、日本海側の越後(新潟県)に淳足柵(ぬたりのさく)(647年)・磐舟橋(いわふねのさく)(648年)が設けられていたが、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて、秋田・津軽方面の蘇我蝦夷を討ち、さらに軍を進めたとも伝えられる。

白村江の戦い

660年(斉明6)、唐・新羅の連合軍に窮地に立たされた朝鮮半島の百済が軍事的援助を求めてきた。663年、中大兄皇子は斉明天皇とともに九州の朝倉宮までおもむいたが、日本軍はこの白村江の戦いで敗北する。日本軍は撤兵して、日本は朝鮮における権益を完全に失うことになった。これにより唐の脅威に直面することになった中大兄皇子は、九州や瀬戸内海に城を築き、都を近江大津宮に移し、国内改革を早めた。なお、半島では、668年には唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼしたが、その後、新羅は唐の勢力をも退け、半島を統一した。

天智天皇

斉明天皇は筑紫で死去したので、中大兄皇子が代わって国政をみた。これを称制という。この間、壱岐・対馬・筑紫に防人と蜂火を置き、大宰府防衛のために水城をつくるなど九州の防備に力を注いだが、665年以後、唐・新羅と相次いで国交が回復し、海外の緊張が薄らぐと、667年に中大兄皇子は都を近江大津京に遷し、668年、正式に天皇の位につき、天智天皇になる。しかしながら即位して4年後、671年12月に崩御する。

天智天皇の政策

天智天皇は内政改革に努め、最初の法令集として近江令22巻を制定した。670年に、最初の戸籍と知られる庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。戸籍は口分田(くぶんでん)を班給する際の基礎になるもので、この庚午年籍は永く保存され、戸籍の基準とされた。

天智天皇陵

天智天皇陵(京都市山科区)。

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