吉田松陰|思留め置かまし大和魂

吉田松陰 1830~1859

吉田松陰は、幕末期の思想家・教育者。主著は『講孟余話』『留魂論』。長州藩の下級武士の子として生まれ、5歳のとき兵学師範の吉田大助の養子になり、山鹿流兵学を学ぶ。家学に没頭し才覚を示し、藩の兵学の師範となった。1850年から九州に赴き、そして江戸に遊学。九州平戸で『新論』(会沢正志斎)を読み、体外事情と日本の歴史への関心を持ったとされる。江戸で佐久間象山の門に入り、西洋兵学を学んだ。国防の策を練るため東北に旅行したことが脱藩行為とされ士籍からはずされるが、藩主の温情で遊学する。1854年、ペリーの二度目の来航の際、西洋への渡航を試みたが拒絶され、自首して、荻にて謹慎の身になる。そのころ、松下村塾で教育を始め、高杉晋作久坂玄瑞木戸孝允伊藤博文山県有朋ら幕末・明治の逸材を輩出した。安政の大獄の際に尊皇攘夷の直接行動を図った罪で処刑された。

吉田松陰

吉田松陰

吉田松陰の年表

1830年 長州藩士の子に生まれる
1835年 叔父の吉田家の養子となる。
1842年 叔父玉木文之進が開設した松下村塾に入門す る。
1851年 東北地方へ遊学、脱藩の罪に問われるが許される
1853年 佐久間象山の弟子になる。諸国遊字の許可を受ける。
1854年 海外密航が失敗
1855年 松下村塾を開く
1858年 老中の間部詮勝の暗殺を企て投獄
1859年 安政の大獄にて処刑

佐久間象山

アヘン戦争などの東洋情勢を学び、吉田松陰は西欧の兵学を受け入れなければ、国防を果たせないと自覚し、江戸を訪ね、西欧学者であった佐久間象山から砲術と蘭学を学んだ。さらに肥後の宮部鼎蔵とともに東北見学し、土佐に戻ると謹慎処分を受ける。

1854年の黒船密航

安政元年(1854) 3月28日、吉田松陰は弟子の紀子重之助(かねこじゅうのすけ)とともにペリーの黒船ポーハタン号に密航を試みる。下田に停泊中の黒船に小舟で近接したが、拿捕される。アメリカへの渡航を懇願するが、認められることはなく送り返される。後に自首をし、下田の獄に繋がれたのち、荻で自宅幽閉を行う。また、師匠の佐久間象山も罰を受けることになった。

 松下村塾


松下村塾

松下村塾

吉田松陰は黒船密航をおこなった後、自宅で門人を集め講義を行い、伊藤俊介(伊藤博文)や山形有朋などを教える。安政3年(1856)には、おじの玉木文之進(たまきぶんのしん)が創業、外伯父の久保五郎左衛門から引き継ぐ形で松下村塾の主催を許可された。門下生には、久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山県有朋、山田顕義、品川弥二郎がいる。

間部詮勝暗殺から処刑

日米修好通商条約締結などに憤った吉田松陰は、間部詮勝(まなべあきかつ)の案説を企てた。安政の大獄により、幕府は松陰の江戸送致を命令し、取り調べで暗殺計画を自白、自らの思想を述べた結果、死刑宣告を受ける。このとき弟子に向けた遺書『留魂録』を書き残した。1859年、斬首される。

辞世の句

身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

思想概要

吉田松陰は、陽明学に特徴的な実践尊重と日常の道徳を基本として、西洋の近代科学を取り入れ、日本を近代化させることを第一に考えた。そして、朱子学的名分論を尊重し、天皇を天下万民の主君とする尊皇論とわが国を諸外国から守る攘夷論を説き、さらに一草莽(在野の臣下)の勤王思想を説いた。

一国万民国家

一国万民国家とは武士や支配階級だけでなく、国民全員が国家存亡に関わる重要な問題について考えなければならないという考え方。水戸学的な国体観と重なるが、水戸学が幕藩体制の維持のうえでの尊皇であるとするのに対し、直接人々が天皇と結びつくというイメージがあり、これを一国万民国家と呼ばれる。従い、鎖国も否定された。

太平無垠の生活にひたって平和を楽しんでいる武士たちがつねにいうところを問いていると、今の武士は昔の武士のように勇猛なことはとてもできぬ、これも時勢というものだなどという者がいる。僕はこういう言葉を聞くと腹が立ってかなわぬ。自分のなすべきことをみずから怠り、これを時運や天命のせいにするならば、不忠・不孝・不仁・不義、みな時運・天命になってしまう。なんでこれをにくまずにおれようか。僕の考えるところをいうならば、国家や夷狄の問題は、もとより君主・宰相の職分ではあるけれども、この神州に生まれた者ならば、天下万民ひとしく、みな自分の職分と考えねばならぬものなのである。それゆえ李筆・韓愈の説も、君主・宰相に向かって説いた言葉であるから、そこではただ君主・宰相にのみ重い責任を課したわけなのである。自分は罪を得て禁錮中の身ではあるけれども、どうして国家の衰乱、夷狄の猖獗を度外視しておくことに我慢できようか。

吉田松陰

吉田松陰

吉田松蔭は現実的な政策を勧めたが、それは「誠」と呼ばれる心の純一さである。勝因の学問は、彼の陽明学、あるいは儒教的の実施性のもと、常に実行と深く緊密に結びついていた。『幽因録』(1854年)は渡航の試みの失敗の後、心境・事情を著したものであるが、その他に刑死の前日に書いた留魂録のほか、『講孟余話』がある。

『幽囚録』にみる海防事案

伏見に城を気づいて幕府を移すこと、京を中心に防衛ラインを引き軍事的統一国家を作ること、その力を基盤に北はカムチャッカから南はフィリピン・ルソン島にいたるまで領有することなどを論じた。

吉田松陰の著作

吉田松陰著作選 留魂録・幽囚録・回顧録 (講談社学術文庫)
講孟余話 ほか (中公クラシックス)

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