懐疑論|ヒューム,デカルト

懐疑論 skepticism

懐疑論は、主観的で限られた人間の知性によっては、普遍的・絶対的な真理を知ることはできないという考え方。懐疑論はすべてを疑い、疑いうるもののいっさいについて判断を控える。ヘレニズム時代のピュロンが始祖とされ、近代の経験論ヒュームや合理論のデカルトなどがその代表として挙げられる。

懐疑論

懐疑論

目次

ピュロンの懐疑論

ピュロンは懐疑主義の始祖とみなされ、懐疑主義をさす、ピュロニズムも彼に由来する。ヘレニズム期の哲学者。画家を志したが、後に哲学に転じ、デモクリトスの弟子のアナクサルコスに師事した。アレクサンドロス大王の遠方遠征に参加し、このときインド思想に接触した可能性亜があり、インド思想に残されていると推察する者もいる。

ヒュームの懐疑論

ヒューム経験論の立場を徹底させて、人間は知覚された経験をこえては何も知ることはできないと考え、経験をこえた事柄について判断する知性の権利や能力を否定した。

デカルトの方法的懐疑

デカルトの懐疑は方法的懐疑と呼ばれる。デカルトにとって、懐疑とは、真理を知るための方法論であった。まず、デカルトはあらゆるものを疑い、疑えうるものはすべて議論から排除した。たとえば、感覚を疑い、自分の見える塔は四角いが本当はまるいかもしれない。いま見えている世界は夢かもしれない。数学のような論理性の高いものでも、計算するたびに「悪霊」により騙しているのではないか。こうしてあらゆるもの一切を疑い、疑えうるものは、真実かもしれないが、真実でないかもしれないとした。そして、疑えうるものは一度は判断を中止してしまう。こうして方法として疑いえるものを排除して、どんなに疑っても疑いきれないもの、最後に残ったものを真理とする。その真理からスタートして議論をすすめていく。その結果、疑っても疑いきれないものを、疑っている主体としての「自分」、つまり「自我」は必ず存在しうるとした。この「自我」だけは疑っても疑いきれない真理として、デカルトの「我思う故に我あり」という言葉に表される。