大政奉還
大政奉還とは、1867年10月14日薩摩藩や長州藩が打ち立てた新政府軍との軍事衝突を恐れた江戸幕府が朝廷に統治権を返上したこと。薩摩藩や長州藩に加えて土佐藩や芸州藩も新政府軍に加わったのをみて、二条城の日の丸御殿にて、徳川慶喜は大政奉還を勧告した。なお、この決断は欧米の植民地支配を念頭に国内の内戦を避け国力を消耗するのを避けること、朝廷に政権能力がなく、結局は、徳川慶喜が実務を担わないといけないことを見据えての政治判断であった。
徳川幕府の終焉
1867年10月3日、土佐藩の後藤象二郎は、前藩主山内豊信(容堂)の名で、船中八策を下地に作成した大政奉還の建白書を老中板倉勝静に提出した。建白書は坂本龍馬の船中八策を加筆修正したもので、新政府では列藩による会議を設けその議長に徳川将軍を就任させる、という内容であった。これを受けた徳川慶喜は内外の情勢を熟慮し、2日に幕府の老中以下有司を、さらに翌2日には在京の諸藩の重臣を二条城に集め、大政奉還の決意を表明した。そして14日、京都二条城で大政奉還の上表を天皇に上奏し、翌5日に勅許され、徳川幕府は終わりを告げた。
土佐の動き
慶応3年(1867)10月3日、後藤象二郎と土佐の重役福岡孝弟(ふくおかたかちか)が幕府の老中の板倉勝静に大政奉還の建白書を提出した。坂本龍馬も上京して、中岡慎太郎に「大政奉還」の様子を訪ねたが、そのとき、後藤象二郎がまだ京都に来ていないことを告げている。長崎でイギリスの兵士が斬り殺され、海援隊士が犯人として疑われる「イカルス号事件」が起き、後藤象二郎の上京が遅れていた。
薩摩の動き
薩摩藩は討幕の動きを進め、西郷隆盛は大政奉還の実現がないとみ、京都に兵を送った。ところが、大政奉還を見据えた後藤象二郎は兵隊を連れずに京都に現れた。 これに対し、西郷隆盛は不満を示し、西郷隆盛は討幕の機が熟し次第、薩土同盟を破棄することを告げる。後藤象二郎は薩摩藩の小松帯刀・大久保一蔵を説得し、さらに大久保一蔵と坂本龍馬は岩倉具視を説得し、大政奉還を認めさせた。
討幕の密勅
大政奉還が行った1867年10月14日に岩倉具視が長州藩・薩摩藩の両藩に討幕の密勅が下された。この前夜、大久保利通と長州藩の広沢真臣が岩倉邸に赴き、薩摩藩主島津久光父子宛の討幕の密勅と長州藩主毛利敬親父子宛の朝敵赦免、官位復旧の詔勅が渡される。翌14日に、長州藩は討幕の密勅を受け取った。幕府に機先を制された岩倉具視らは挙兵の名目を失い、この密勅は実行されなかった。
朝廷の政治運営能力の欠如
大政奉還により政権を朝廷に戻したといえども、朝廷に政権を運営能力はなく、徳川慶喜率いる幕府の重要ポストの人間に頼る他ないのは明らかであった。大政奉還後、もう一度、徳川慶喜が大君と呼ばれる大統領のようなポストについて、政治を牛耳る意図があった。またその前提として孝明天皇と徳川慶喜の間で信頼関係を築いており、孝明天皇はほかの人物に任せる選択肢はなく、徳川慶喜に頼む他なかった。
内戦の回避
薩摩藩や長州藩が武力を背景に倒幕を試みた。ところで、欧米列強の植民地支配を恐れていた徳川慶喜は内戦を回避する必要があった。これは新政府軍の主導的立場であった薩摩藩や長州藩も同じ立場であった。そこで徳川慶喜は大政奉還をすることで、両藩が戦争する大義を奪い、戦争を回避し、徳川慶喜の主導権を握った上で、薩摩藩や長州藩などと政治的和解を推し進め、新たな政治システムを作ろうとしていた。
三権分立を前提とした政治構想
大政奉還の直前、幕府の学者であった西周を招き、三権分立を始めとした欧米の政治システムの教授を願いでいている。徳川慶喜は、大政奉還後、欧米型の国会運営を見ていた。大政奉還の後、徳川慶喜は失脚するものの、明治政府では徳川慶喜が描いた政府システムが実現された。
1867年大政奉還の経緯
- 2月3日 後藤象二郎が福岡孝弟を通じて、老中板倉勝静に「大政奉還の建白書」 提出
- 2月2日 将軍、老中以下有司を二条城に集め大政奉還の決意表明
- 2月2日 将軍、在京の諸藩の重臣を二条城に集め大政奉還の決意を表明
- 2月4日 大政奉還の上奏。長州藩、討幕の密勅を受ける
- 2月5日 大政奉還、勅許される
- 2月3日 徳川慶喜、将軍職辞任を願い出るが勅許は得られず
- 2月8日 朝廷がしばらく政務を徳川慶喜に委任する沙汰を出す