島津久光|薩摩藩,幕末,国父,明治維新

島津久光 しまづ ひさみつ

島津久光(1817.12.2 ~ 1887.12.6)は薩摩藩主の島津斉彬の異母弟であり、薩摩藩主の島津忠義(茂久)の実父。薩摩藩重富領主。薩摩藩内で「国父」と称されて実権を握り、薩摩藩を主導していった。外様大名でありながら、文久の改革を促し、西郷隆盛大久保利通など薩摩藩の政治家の活躍の立役者となる。明治以降は、一度は新政府に参加するが、意見が合わずに政府を去り、鹿児島で余生を過ごした。

島津久光.

島津久光.

目次

島津久光の生涯

島津久光は、文化14年(1817年)に薩摩藩主島津斉興と側室の由羅の間に生まれた。後の薩摩藩主の島津斉彬の異母弟である。文政元年(1818年)に種子島久道の養子となる。文政8年(1825年)に島津家に復帰して、重富島津家の娘である千百子と結婚して同家を相続し、4000石の大名となった。
嘉永2年(1849年)、次期薩摩藩主をめぐって島津斉彬派と島津久光派が対立したが、島津久光自身は全くの無関係であった(お由羅騒動)。この騒動は、兄である島津斉彬が藩主の座に就くことで落着した。

お由羅騒動

お由羅騒動とは、薩摩藩27代藩主の島津斉興の側室であり、久光の母である由羅は、家老の調所広郷とともに島津久光の藩主擁立を画策したとされ、これをきっかけに家臣団の分裂を招いた。28代藩主となった島津斉彬は多数の子どもをもうけたが、男子が次々と子折して女子しかのこらなかった。跡継ぎが重要だった当時、お由羅の呪詛とされた。

好学の士

学問の才能に優れ、漢学や歴史学、詩歌を好んだ。幼少期は、『唐詩選』の五言絶句の一部を部屋に張って暗記したと言われている。王政復古ののち、薩摩藩に戻ってからは、『通俗国史』(『六国史』をベースに設計)を編纂や『島津家国事鞅掌資料』などの編纂を部下に支持するなど学者としての成果もなしている。

「国父」島津久光

お由羅騒動にも拘わらず、島津久光は兄の島津斉彬と仲が良かった。薩摩藩主である島津斉彬は、良心的に島津久光のことを幕臣の大久保一翁や勝海舟に紹介したりしている。
安政5年(1858年)に島津斉彬が、安政6年(1859年)に父の島津斉興が死去すると、実子であり薩摩藩主になっていた島津茂久(忠義)の後見役として実権を握る。この頃、薩摩藩内では「誠忠組」と称される面々が安政の大獄などに憤慨して突出計画(脱藩して挙兵する計画)を立てていた。これに対して藩主島津茂久の名で諭告書を出して彼らを思いとどまらせることに成功したが、これには島津久光の力が働いたと言われる。こうして、「誠忠組」を取り込むことに成功した島津久光は、薩摩藩内の人事刷新を行い、体制の確立を図った。このときに登用されたのが、小松帯刀大久保一蔵(大久保利通)である。

文久の改革

 島津久光は、小松帯刀大久保一蔵(大久保利通)などの計画を実行するべく動き出した。それは、薩摩藩兵を率いて幕政改革などを促すというものである。勅使を関東に遣わすことで幕政改革を天皇から命じてもらうかたちをとろうとした。幕政改革の内容は、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老(実現したのは政事総裁職)に任命させ、参勤交代制を緩和させることなどである。この改革を文久の改革というが、外様大名であった薩摩藩が幕政に影響を与えたことを意味しており、江戸幕府の衰退を象徴している。

寺田屋

寺田屋

寺田屋騒動

文久2年(1862年)、島津久光は率兵上京を開始し、京都に到着すると、過激な行動をとろうとする薩摩藩士を鎮圧した(寺田屋騒動)。過激派を鎮圧したことで朝廷からの信頼を得た島津久光は、勅使の大原重徳に随従するかたちで江戸に行き、幕府に対して改革を要求し、実現させた。

薩英戦争

江戸からの帰路、生麦村にて島津久光の行列をイギリス人が横断しようとして斬殺された生麦事件が起こる。リチャ—ドソンはその場で殺され、大使館に逃げられた他三名は重傷を負った。文久3年(1863年)、イギリスは生麦事件の報復として鹿児島湾に7隻のイギリス軍艦を差し向けたが、薩摩藩は抵抗して戦争に発展した(薩英戦争)。結果は、イギリス軍を撤退させることには成功したが、薩摩藩側も鹿児島城下を広範囲に焼かれるなどの甚大な被害を被った。

王政復古の大号令

八月十八日の政変」の後に、島津久光は朝廷の会議に参加できる「朝議参予」に任じられたが、一橋慶喜との対立により失敗し、再び帰国した。慶応3年(1867年)、松平慶永・伊達宗城・山内豊信と共に京都に集合し、長州処分問題・兵庫開港問題について将軍徳川慶喜へ意見を具申したが、満足な結果にならなかった。この頃、島津久光は脚気を患い、療養した後に鹿児島へ帰国した。そのため、「王政復古の大号令」(慶応3年12月9日)のときは鹿児島におり、明治を迎えることになった。

明治政府に参画

明治6年(1873年)、西郷隆盛らが去った明治政府に参画する。内閣顧問・左大臣などを歴任するが、政府内で意見が通らず(政府の欧化政策を批判した)辞職する。明治9年(1876年)以降は、鹿児島に帰り余生を過ごした。明治17年(1884年)に公爵を授けられ、明治20年(1887年)に死去。葬儀は国葬の礼が執られた。

参考文献

芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年)。
町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社、2009年)。
『国史大辞典』「島津久光」(執筆:原口虎雄)。

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