ヨルダン
中東に位置するヨルダンは、レバントと呼ばれる地域に属し、アジア内陸部と地中海世界、さらにはアラビア半島を結ぶ結節点として発展してきた王国である。正式名称はヨルダン・ハーシミテ王国で、現在もハーシム家による立憲君主制が続いている。第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領から出発したヨルダンは、パレスチナ問題や冷戦構造、周辺のアラブ民族運動の影響を強く受けながら、独自の国家形成と近代化を進めてきた。
地理と自然環境
ヨルダンは北にシリア、西にイスラエルおよびパレスチナ、東にイラク、南と東にサウジアラビア王国と接する内陸国である(南端のみアカバ湾に面する)。国名の由来となったヨルダン川と死海沿岸の低地、首都アンマン周辺の丘陵、東部の砂漠地帯といった多様な自然環境を持つが、降水量は乏しく慢性的な水資源不足に悩まされている。この脆弱な自然条件が、近代以降の政治・経済政策にも大きな制約を与えてきた点がヨルダンの特徴である。
- 首都アンマンを中心とする高原地帯
- ヨルダン川流域と死海沿岸の低地
- 東部・南部に広がるステップ・砂漠地域
古代からオスマン帝国支配まで
現在のヨルダン領域には、古代にはアモン人やモアブ人などの諸王国が成立し、その後ナバテア王国が香料交易を背景に繁栄した。ローマ帝国とビザンツ帝国の支配のもとで、交易都市ペトラなどが発展し、地中海世界とアラビアを結ぶ要地として位置づけられた。7世紀以降はイスラーム勢力に編入され、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝などの統治を経て、16世紀からはオスマン帝国の一州として組み込まれる。遊牧ベドウィンとオアシス都市が共存する辺境地として、帝国の枠内にありながらも比較的自律的な社会構造が保たれていたことが、近代のヨルダン社会にも影響を残した。
英領委任統治とトランスヨルダン首長国
第一次世界大戦とオスマン帝国の解体後、現在のヨルダン地域はイギリスの委任統治領パレスチナの一部とされた。大戦中に行われたフサイン=マクマホン協定やサイクス=ピコ協定に基づく列強の分割政策のもと、ハーシム家のアブドゥッラーは1921年にトランスヨルダン首長国の首長となる。同時期に弟のファイサルはイラク王国の国王となり、ハーシム家はレバントからメソポタミアにかけて勢力基盤を築いた。こうした英領委任統治からの漸進的な移行過程は、エジプトやアフガニスタン独立などとともに、20世紀前半のアラブ諸国の独立の一環として位置づけられる。
独立とハーシム家王政
第二次世界大戦後、1946年にトランスヨルダンは正式に独立し、アブドゥッラー1世を国王とするハーシム王国となった。その後、1948年の第一次中東戦争を経て西岸地区を併合し、1950年に国名をヨルダン・ハーシミテ王国と改める。1967年の第三次中東戦争で西岸地区を失ったことはヨルダンに深刻な打撃を与え、膨大なパレスチナ難民の受け入れと政治的不安定を招いた。1970年の「黒い九月」では、王政とPLOの武力衝突が起こり、国内秩序と対外関係の再調整が迫られた。冷戦後にはイスラエルとの和平条約(1994年)を締結し、地域安定の仲介役としての役割も強めている。
政治体制と社会構造
ヨルダンは立憲君主制を採用し、国王を頂点とする行政と選挙制の下院・任命制の上院からなる議会制度を持つ。社会的には、先住の東岸系住民と多くのパレスチナ系住民、ベドウィン部族などが混在し、都市部と農村部、遊牧と定住の伝統が重層的に存在する。ハーシム家王政は、こうした多様な社会基盤の仲裁者として機能しつつ、アラブ民族主義やイスラーム主義の潮流と折り合いをつけてきた。周辺のヒジャーズ=ネジド王国を経て成立したサウジアラビア王国や、世俗改革を進めたパフレヴィー朝イラン、英支配からのエジプト=イギリス同盟条約後のエジプトなどと比較すると、穏健な王政の維持という点にヨルダンの特色がみられる。
- 国王を中心とした立憲君主制
- 都市部と部族社会の併存
- 多数のパレスチナ難民を抱える社会構造
経済と対外関係
豊富な石油資源を持たないヨルダンの経済は、リン鉱石・カリ鉱石などの鉱業、観光業、海外出稼ぎ労働者からの送金、国際援助に大きく依存している。世界遺産ペトラ遺跡や死海観光、紅海沿岸アカバ港周辺のリゾート開発は、重要な外貨獲得手段である。対外的には、湾岸諸国や西側諸国との協調を保ちながら、イラク戦争やシリア内戦など周辺危機の影響を受けつつも、難民受け入れと治安維持の両立を図っている。ハーシム家はアラビア半島の宗教的名門としても知られ、かつてネジドの指導者イブン=サウードと覇権を争った歴史を持つが、現在のヨルダンは調停役・仲介者として国際社会で一定の役割を果たしている。