エジプト=イギリス同盟条約
エジプト=イギリス同盟条約は、1936年にエジプト王国とイギリスとのあいだで締結された同盟条約であり、英語ではAnglo-Egyptian Treaty of 1936と呼ばれる。形式上は対等な軍事同盟であったが、実質的にはイギリス軍の駐留とスエズ運河防衛の権利を認めた不平等な性格を残しており、20世紀前半のエジプト近現代史と中東におけるイギリス帝国支配の転換点となった条約である。
締結の背景
19世紀末以来、エジプトは1882年の占領以降、事実上イギリスの支配下に置かれていた。第一次世界大戦中、イギリスは1914年にエジプトを保護国と宣言し、オスマン帝国から切り離した。戦後、1919年の革命運動とワフド党の民族運動を背景に、1922年にエジプトは名目上の独立を達成しエジプト王国が成立したが、イギリスは「帝国防衛」「スエズ運河の安全」「スーダン問題」などの分野で特権を保持し続けた。この半端な独立は、都市中間層や農村エリート、さらには後に台頭するムスリム同胞団など幅広い層に不満を蓄積させることになった。
条約締結への過程
1930年代に入ると、イタリアのエチオピア侵略やドイツの再軍備など、ヨーロッパと地中海世界の緊張が高まり、スエズ運河の戦略的重要性は一層増大した。一方エジプト側では、ワフド党をはじめとする民族主義勢力が完全独立とイギリス軍撤退を要求し続けていた。こうしたなか、イギリスは帝国の防衛線を保ちつつ、形式的には民族自決の潮流に応じる妥協策として、同盟条約の締結交渉に応じたのである。
条約の主な条項
エジプト=イギリス同盟条約は20年間の有効期間を持つ軍事同盟条約として締結され、その内容は次のような要素から構成されていた。
- 両国は相互援助の同盟関係に入り、戦時には共同で防衛にあたること
- イギリスはスエズ運河地帯に約1万人規模の陸軍部隊と空軍基地を維持する権利を持つこと
- エジプト軍の訓練や装備の近代化にイギリスが協力すること
- エジプトが国際連盟加盟国として、主権国家としての地位を承認されること
- 有事の際には、エジプトがイギリス軍の輸送や補給に協力すること
条約は形式上、対等な同盟として構成されていたが、運河地帯の長期駐留権や基地使用権の維持は、依然としてイギリスに優位な軍事権益を与えるものであり、エジプト側の民族主義者からは不完全な独立と批判された。
エジプト国内の反応
条約締結時、ワフド党をはじめとする政治エリートの一部は、国際連盟加盟と主権承認を得るための「現実的妥協」として条約を受け入れた。他方で、学生運動や労働者、農村の若者など急進的民族主義勢力は、スエズ運河地帯への外国軍駐留継続をもって実質的な従属関係の存続とみなし、激しく批判した。1920年代末から伸長していたムスリム同胞団も、イスラーム的価値と民族独立を掲げ、条約体制に反対する重要な潮流となっていった。
スエズ運河と帝国戦略
スエズ運河は、イギリスにとってインド洋・東アジアと本国を結ぶ「帝国の生命線」であり、その安全確保は帝国防衛戦略の中心であった。条約は、エジプトを形式上の同盟国とすることで、占領や保護国といった露骨な支配形態からは後退したが、運河地帯への軍事的プレゼンスを維持することで、帝国戦略の核心部分を温存したといえる。この構図は、のちのスエズ危機まで続く、中東におけるイギリスと民族国家との対立の出発点となった。
第二次世界大戦下での条約運用
第二次世界大戦が勃発すると、エジプトは形式上中立を宣言したものの、条約に基づきイギリス軍はエジプト領内を基地として利用し、北アフリカ戦線の拠点とした。1942年には「アブディーン宮殿事件」が起こり、イギリスは国王ファールーク1世に圧力を加えてワフド党内閣を復帰させるなど、なお強い政治的影響力を行使した。このような干渉は、戦後に向けて反英感情と完全独立要求をいっそう強める結果となった。
戦後の改定要求と条約の廃棄
第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れが強まるなかで、エジプトでは運河地帯からのイギリス軍撤退と条約廃棄が国民的なスローガンとなった。1951年、ワフド党政権は一方的に条約破棄を宣言し、運河地帯では反英ゲリラ闘争が広がった。1952年の自由将校団によるエジプト革命は、この状況を背景として成功し、のちにナセル政権が登場する。イギリスは1954年の新協定により段階的撤退を受け入れ、オスマン帝国滅亡後も続いてきた旧来型の中東覇権体制は大きく揺らぐことになった。
歴史的意義
エジプト=イギリス同盟条約は、形式的には主権承認と同盟関係への移行を通じて、植民地支配から条約体制への転換を示すものであった。他方で、スエズ運河地帯の駐留権や政治介入の余地が残されたことから、エジプト民族主義者にとっては新たな闘争の標的ともなった。条約の成立と崩壊の過程は、20世紀のエジプト近現代史における国家主権の模索と、帝国主義勢力との妥協と対立を象徴する事例であり、中東国際政治の構造的な緊張を理解するうえで不可欠の出来事である。