オスマン帝国滅亡
オスマン帝国は、アナトリアとバルカンを中心に広大な領域を支配したイスラーム帝国であるが、近代に入ると列強の圧力と民族運動の高まりによって急速に衰退した。一般にオスマン帝国滅亡とは、第一次世界大戦後に帝国が事実上解体され、最後のスルタンが廃されて、後継国家としてトルコ共和国が成立する過程を指す。この過程は、戦争の敗北、列強による分割案、そして民族主義運動とトルコ革命の展開が複雑に絡み合ったものであり、近代中東世界の秩序形成に決定的な影響を与えた。
帝国の衰退と第一次世界大戦
19世紀のオスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど弱体化し、バルカン諸民族の独立や列強の干渉によって領土を縮小していった。近代化を目指すタンジマート改革や、1908年の青年トルコ革命などの試みが行われたが、軍事的・財政的な後進性は克服できなかった。帝国はドイツに接近し、1914年に第一次世界大戦へ同盟国側として参戦したが、ガリポリ戦線や中東戦線での戦闘、内政の混乱により疲弊し、戦争末期には敗北が決定的となった。
ムドロス休戦協定と占領下のイスタンブル
1918年10月、帝国政府は連合国とムドロス休戦協定を締結し、軍の武装解除と海峡・要地の連合国軍による占領を受け入れた。これにより帝国の主権は大きく制限され、翌年には首都イスタンブルも連合国軍に占領される。宮廷と旧来の宰相政府は存続したものの、実権は占領軍と列強代表に握られ、帝国政治は事実上、列強の監督下に置かれた。この段階でオスマン帝国滅亡はまだ形式的には完成していなかったが、帝国はもはや自律的な国家としての機能を失っていた。
セーヴル条約と帝国解体案
1920年、連合国とイスタンブル政府はセーヴル条約を結び、帝国領の徹底的な分割が決定された。同条約では、アナトリア西部と東トラキアの一部がギリシアに割譲され、アルメニア国家やクルド自治の構想も盛り込まれた。また、ボスポラス・ダーダネルス両海峡は国際管理下に置かれ、残されたアナトリア中部も経済的特権や治外法権によって列強に従属させられようとした。この厳しい講和条件はトルコ系住民の強い反発を呼び起こし、アナトリアでの民族運動を一層加速させた。
民族運動とスルタン制廃止
連合国の占領とセーヴル条約に対抗して、ムスタファ=ケマル(のちのケマル=アタテュルク)を指導者とするトルコ民族運動がアナトリアで組織された。彼らはアンカラに大国民議会を開き、イスタンブルのスルタン政府とは別個の正統政府を自認し、ギリシア軍やアルメニア軍との戦闘を通じて軍事的主導権を握っていった。1922年、大国民議会はスルタン制の廃止を宣言し、最後のスルタン、メフメト6世は国外へ亡命した。このスルタン制廃止の決定こそが、制度上のオスマン帝国滅亡を意味し、帝国は600年近い歴史の幕を閉じたのである。
ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立
スルタン制廃止後も民族運動政府は列強と交渉を続け、1923年に締結されたローザンヌ条約によって、アナトリアと東トラキアの大部分を領土とする新たなトルコ国家の主権が国際的に承認された。同年、アンカラを首都とするトルコ共和国が正式に樹立され、翌年にはカリフ制も廃止されて、帝国時代の宗教的権威も終焉を迎えた。このように、第一次世界大戦の敗北からローザンヌ条約、共和国樹立に至る一連の過程が、帝国から民族国家トルコへの転換であり、政治体制・領土・国民概念の全てにおいて断絶的変化をもたらした。
イスラーム世界と中東秩序への影響
トルコ革命とオスマン帝国滅亡は、トルコ国内にとどまらず、イスラーム世界と中東全体に深い影響を及ぼした。帝国の宗主権が失われると、アラブ地域は英仏の委任統治領として分割され、新たな国境線が引かれた一方、カリフ制廃止はイスラーム共同体の象徴的中心を失わせ、多くのイスラーム諸国に衝撃を与えた。その一方で、トルコの世俗的な民族国家建設と近代化の路線は、のちのアラブ民族主義やイスラーム諸国の国家建設にも参照されるモデルとなり、トルコ革命とイスラーム諸国の動向は20世紀の世界史を理解する上で重要なテーマとなっている。
年表で見るオスマン帝国滅亡の過程
最後に、オスマン帝国滅亡に至る主な出来事を年代順に整理すると、その過程がより明確になる。
- 1908年 青年トルコ革命が起こり、立憲政治が復活する。
- 1914年 帝国が同盟国側で第一次世界大戦に参戦する。
- 1918年 ムドロス休戦協定の締結により連合国軍が各地を占領する。
- 1920年 セーヴル条約が締結され、帝国領の分割案が決定される。
- 1920〜22年 ムスタファ=ケマルを中心とする民族運動が展開し、ギリシア軍などを撃破する。
- 1922年 大国民議会がスルタン制廃止を決議し、帝国の君主制が終焉する。
- 1923年 ローザンヌ条約とトルコ共和国樹立により、新国家の主権が確認される。
- 1924年 カリフ制廃止により、旧来の宗教的権威も消滅し、共和国体制が一層強化される。