ローザンヌ条約
ローザンヌ条約は、第一次世界大戦後の対トルコ講和をやり直した条約であり、1923年にスイスのローザンヌで締結された講和条約である。敗戦国オスマン帝国に過酷な条件を課したセーヴル条約を実質的に破棄し、トルコ民族運動を指導したムスタファ=ケマル率いるアンカラ政府を正統な主体として承認し、現代のトルコ共和国の国境と主権の枠組みを確定した点に大きな特色がある。
背景
第一次世界大戦後、連合国は崩壊したオスマン帝国に対し、領土の大幅分割と経済的従属を定めたセーヴル条約を押し付けた。しかしギリシア軍のアナトリア進出を契機にトルコ民族運動が高揚し、アンカラに樹立された新政府は諸外国との武力衝突を通じて現状変更を迫った。とくにギリシア=トルコ戦争でトルコ側が勝利し、セーヴル体制は現実から乖離していった。
会議と成立の経緯
こうした状況の下で開催されたのが、1922年から23年にかけて行われたローザンヌ会議である。参加国はイギリス・フランス・イタリア・日本などの連合国とギリシア、さらにアンカラ政府であり、敗戦国側の代表がイスタンブル政府ではなくケマル政権であった点が象徴的であった。会議では領土問題、海峡問題、治外法権や財政・債務処理など、旧オスマン領をめぐる多くの懸案が交渉され、その最終的な妥結としてローザンヌ条約が1923年7月に調印された。
領土規定
ローザンヌ条約の最大の成果は、アナトリアと東トラキアを中心とするトルコ国家の領土を国際的に承認させた点である。アラブ地域の委任統治化や独立は基本的に維持されたものの、イズミルや東トラキアはトルコに返還され、ギリシアの小アジア進出は否定された。また、ブルガリア・ギリシア・ユーゴスラヴィアとの国境線も定められ、バルカンにおけるトルコ領の範囲が再確認された。このように条約は、戦後ヨーロッパ国際秩序であるヴェルサイユ体制の一部を修正する役割を果たした。
海峡問題と国際管理
ローザンヌ条約では、ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を含むトルコ海峡の扱いも重要な論点となった。条約は海峡の非武装化と国際委員会による管理を定め、民間船舶の通航の自由を保障した。この海峡制度はのちにトルコの再軍備とモントルー条約によって修正されるが、当時としては連合国の安全保障上の関心とトルコの主権との妥協として位置づけられる。
治外法権と財政・債務処理
近代以降のオスマン帝国は、欧米列強に対して関税自主権の制限や裁判権の特権を認める「カピチュレーション」と呼ばれる不平等な制度を受け入れていた。ローザンヌ条約はこれを廃止し、トルコに完全な主権と法的平等を回復させた点で画期的である。また旧帝国の対外債務については、シリアやイラクなど旧領土を継承した諸国および委任統治領と分担する形で整理が進められた。
少数民族問題と人口交換
ローザンヌ条約は、トルコ国内の少数民族、とくにギリシア正教徒やアルメニア人の地位にも関わった。条約本体や関連協定は、宗教的少数者の保護をうたいつつ、現実にはギリシアとトルコの間で大規模な住民交換政策を容認した。これにより、アナトリアから多くのギリシア系住民が移住し、逆にギリシアからイスラーム教徒がトルコへ送還されることになり、民族構成の一国化が進行した。
国際秩序への影響
ローザンヌ条約は、敗戦国に対する過酷な講和条件が実力によって修正されうることを示し、のちのドイツやイタリアによる条約改定要求に一定の先例を与えたと評価されることがある。また、民族自決を掲げる新興国家が、武力と外交を組み合わせて戦後秩序を再交渉するモデルともなった。この意味で、ローザンヌ体制は、連合国の戦後構想と現実政治の妥協として成立した新たな中東・バルカン秩序の一環であり、地域の国境線と国家関係に長期的な影響を与えた。
歴史的意義
総じてローザンヌ条約は、オスマン帝国の最終的解体とトルコ民族国家の成立を国際的に承認した条約であり、トルコ近代史における転換点である。同時に、サン=ジェルマン条約などとともに戦後処理の再編成に関わる条約として、中東問題や民族紛争の起点ともなった。条約の成立を理解することは、現代のトルコ国家の成り立ちや、戦後国際秩序の変遷を考える上で不可欠であり、ヨーロッパと中東を結ぶ国際政治史の重要な一章をなしている。