パフレヴィー朝|近代化と専制が交錯する王朝

パフレヴィー朝

パフレヴィー朝は、1925年から1979年までイランを支配した王朝であり、カジャール朝を倒して成立した近代的中央集権国家である。創始者レザー・ハーンは軍を基盤とする実力者で、王位に就いてレザー・シャー・パフレヴィーと称し、道路や鉄道の建設、軍制改革、行政機構の整備などを通じて近代国家建設を進めた。一方で、専制的な統治と急進的な世俗化政策は、伝統的宗教勢力や地方勢力との緊張を生み、のちのパフレヴィー朝崩壊の要因ともなった。

成立の背景とカジャール朝の崩壊

19世紀後半以降、カジャール朝のイランは財政難と政治的混乱に苦しみ、ロシアやイギリスなど列強の影響力が強まっていた。1905年には立憲革命が起こり、国会の設置や憲法制定が実現したものの、中央政府の権威は弱く、地方の有力部族や宗教指導者が大きな影響力を保持し続けた。このような権力分立と無秩序の中で、軍事力を背景とする新たな指導者の登場余地が生まれ、コサック旅団の士官であったレザー・ハーンが頭角を現したのである。

レザー・シャーによる王位獲得と近代化

レザー・ハーンは1921年にクーデタを起こして政権中枢を掌握し、1925年に国会の支持を得てカジャール朝最後の王を廃位させ、自らシャーとしてパフレヴィー朝を開いた。彼は、地方部族の武装解除や行政区画の再編を通じて中央集権化を推し進め、近代的官僚制と常備軍を整備した。さらに、教育制度の改革や世俗的裁判制度の導入、女性の公的空間への進出奨励など、西洋をモデルとした近代化政策を展開し、1935年には国名を「ペルシア」からイランへと公式に変更した。

世俗化政策と宗教・社会への影響

レザー・シャーは宗教勢力の影響力を抑えるため、宗教裁判所の権限縮小や聖職者の特権制限を進め、女性のヴェール着用禁止や西洋風服装の奨励など象徴的な政策も実施した。これらは都市の一部中産階級には支持されたが、地方の伝統的社会やイスラム教聖職者に強い反発をもたらした。また、急速なインフラ整備や工業化は経済発展を促した一方で、農村の負担増加や貧富の格差拡大という問題も生み、社会の内側に不満が蓄積していった。

第二次世界大戦と王位継承

第二次世界大戦が勃発すると、イランは地理的に重要な位置にあったため、連合国の補給路確保の対象となった。レザー・シャーは中立を掲げたものの、ドイツとの関係を警戒したイギリスとソビエト連邦は1941年に進駐し、レザー・シャーに退位を迫った。これにより、王位は息子のモハンマド・レザーに継承され、同じくパフレヴィー朝の君主としてモハンマド・レザー・シャーの時代が始まったが、その主権は戦時中、連合国の影響力のもとで大きく制約された。

モサデク政権と石油国有化をめぐる危機

戦後のイランでは、イギリス系石油会社が石油利権を支配していることへの不満が高まり、ナショナリズムの高揚とともに石油国有化運動が広がった。その中心人物がモハンマド・モサデクであり、1951年に首相となって石油産業の国有化を断行した。これに対しイギリスアメリカ合衆国は経済制裁や秘密工作を行い、1953年にはクーデタが起こってモサデク政権は崩壊した。クーデタ後、モハンマド・レザー・シャーの権力は強化され、パフレヴィー朝は冷戦下で西側陣営にしっかりと組み込まれていった。

モハンマド・レザー・シャーの統治と白色革命

1960年代に入ると、モハンマド・レザー・シャーは「白色革命」と呼ばれる一連の改革を開始した。そこでは、土地改革、教育拡充、女性参政権の付与、国家主導の工業化政策などが掲げられ、中東の中でも先進的な近代化プログラムと評価された面もあった。一方で、土地改革は地方社会を動揺させ、中小農民の没落を招いた側面もあり、急激な社会変化は都市部への人口流入とスラムの拡大をもたらした。また、秘密警察SAVAKによる反対派弾圧は、政党政治や市民社会の自律的発展を抑圧し、王権への不満を地下に押し込める結果となった。

体制の矛盾とイラン革命への道

石油ブームによって1970年代のイラン経済は一見繁栄したが、その利益は王家や一部エリート層に集中し、インフレと格差拡大に対する不満が広がった。西洋風の生活様式を推し進めるパフレヴィー朝の政策は、宗教的価値観を重視する層には「伝統の破壊」と映り、聖職者や保守的中間層、学生・知識人など多様な集団が王政に批判的になっていった。やがて、亡命先からホメイニ師が発するメッセージが広く共有されるようになり、宗教的スローガンを掲げた大規模な反体制運動が全国に拡大した。

宗教勢力と都市中間層の動員

1978年以降、デモやゼネストが頻発し、軍部や官僚機構の内部にも王政に批判的な動きが現れた。パフレヴィー朝は外見上は強大な軍事力と石油収入を持っていたが、社会全体の支持を失い、政治的正統性を回復することができなかった。1979年、モハンマド・レザー・シャーは国外に脱出し、ホメイニ師の帰国とともにイラン革命が成立すると、王政は廃止され、イラン・イスラム共和国が樹立された。これにより、約半世紀続いたパフレヴィー朝は終焉を迎えたのである。

パフレヴィー朝の歴史的意義

パフレヴィー朝の時代は、伝統的君主制国家から中央集権的近代国家への転換が進められた時期であり、インフラ整備や教育拡大、産業化などの面でイランの近代化に大きな足跡を残した。他方で、専制的統治と外部勢力への依存、急進的な世俗化は、宗教的価値観や地域社会との深刻な断絶を生み、最終的にイスラム革命という形で一挙に噴出した。こうした経験は、中東世界における近代化と伝統、外圧とナショナリズムの相克を象徴する事例として位置づけられ、20世紀国際政治と地域社会を考えるうえで現在も重要な意味を持ち続けている。