イラク王国
イラク王国は、1921年から1958年までメソポタミア地域に存在した立憲君主制国家である。かつてオスマン帝国の一州であったティグリス・ユーフラテス流域に、第一次世界大戦後の国際再編とイギリスの委任統治を経て成立した。ハーシム家のファイサル1世を国王とし、議会制と王権を組み合わせた体制をとったが、宗派対立や民族問題、イギリスとの半植民地的な関係など多くの矛盾を抱えていた。近代イラクの出発点として、中東における王制国家とアラブ諸国の独立の流れを理解するうえで重要な事例である。
第一次世界大戦後の中東再編
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、イギリスとフランスはサイクス=ピコ協定などの秘密協定に基づき中東を分割した。バスラ・バグダード・モスルからなるイラク地域はイギリスの勢力圏とされ、国際連盟の委任統治領として管理された。この体制に対し、1920年にはイラク人の大規模な反英蜂起が起こり、イギリスは直接統治のコストの高さを痛感した。その結果、現地エリートを用いた王制国家を樹立し、自国の利害を維持しつつ自治を拡大させる方針が採られた。
ファイサル1世の即位と王国の成立
1921年、アラブ反乱で活躍し、かつてシリア王にも推戴されたファイサルがバグダードに迎えられ、国民投票を経て国王ファイサル1世に即位した。これによって名目上は独立王国としてのイラク王国が誕生し、憲法や議会が整備された。しかし、王国の安全保障や財政は依然としてイギリスに大きく依存し、英軍基地の駐留や治外法権的な特権が維持された。同時期にアラビア半島ではイブン=サウードが勢力を拡大し、のちにサウジアラビア王国を建設するなど、中東各地で王制国家の形成が進んだ。
政治体制と社会構造
- 王と少数のスンナ派アラブ人エリートが政治の中枢を占め、シーア派住民やクルド人は周縁化されがちであった。
- 議会制や政党制度が導入されたものの、選挙制度は地主や都市エリートに有利で、広範な民衆の政治参加は限定的であった。
- イギリスとの条約によって外交・軍事の重要部分が拘束され、形式的な主権と実質的な従属の間で揺れ動いた。
部族社会と農村支配
農村部では大土地所有制と部族社会が強く残り、部族長や有力地主が国家と農民の仲介役を担った。政府は彼らに行政的権限や軍事的役割を与えることで統治を図ったが、その結果として地方の自律性は高く、中央政府の権威は必ずしも強固ではなかった。こうした構造は社会的不平等や税負担への不満を生み出し、後の反乱やクーデタの背景となった。
独立と対外関係
1930年の英・イラク条約により、イラクは国際連盟への加盟を前提に主権国家として認められ、1932年に正式に独立した。しかし条約は英軍基地の使用権や外交上の優先権をイギリスに保障しており、実質的には強い影響力が維持された。独立後、王国は中東全体の再編に関与し、他のアラブ諸国の独立運動を意識しつつ外交を展開した。同じ頃、東方ではアフガニスタン独立が達成され、大英帝国の勢力後退が広範な地域で進行していた。
クーデタと第二次世界大戦
1930年代には軍部と政党の対立が深まり、1936年にはバクル・サドキによる中東初の軍事クーデタが発生した。第二次世界大戦期には、親独的な政権がイギリスとの対立を深め、1941年に英軍が介入して政権を打倒する出来事も起きた。戦後になると、エジプトでのムスリム同胞団やワフド党など反英的な勢力の台頭が中東全域に影響を与え、イラクでも反帝国主義・アラブ民族主義の世論が強まっていった。
冷戦期のイラク王国と1958年革命
冷戦期に入ると、イラク王国は西側陣営に接近し、防衛条約への参加や反共政策を進めた。だが、パレスチナ問題やエジプト革命などを機にアラブ民族主義が高揚すると、西側寄りの王政は「外国寄りの旧勢力」と見なされ、若手将校や都市中間層の不満が蓄積した。1958年の軍事クーデタ(七月革命)によって王政は打倒され、国王一家は殺害されて共和制へ移行した。この革命をもってイラク王国は終焉し、その後のイラク政治はクーデタと権威主義体制が続く不安定な時代へと移っていった。