イラク|中東の要衝イラクの歩み

イラク

イラクは、中東のティグリス川とユーフラテス川流域に位置する国家であり、古代メソポタミア文明の中心地として知られる。肥沃な三日月地帯にあたるこの地域では、早くから農耕や都市文明が発達し、その歴史的遺産は現在の国家形成や宗教・民族構成にも深く影響している。また、世界有数の石油資源を有し、20世紀以降の国際政治や戦争の舞台ともなってきた。

地理と民族構成

イラクは、北にトルコ、東にイラン、西にシリアとヨルダン、南にクウェートとサウジアラビアに接する内陸国家である。国土の中心をティグリス川とユーフラテス川が南北に流れ、バグダードやバスラなど主要都市はこれらの河川沿いに形成されてきた。住民の多くはアラブ人であるが、北部にはクルド人が多く居住し、トルクメンやアッシリア人など少数民族も暮らす。宗教的にはイスラームが大多数で、シーア派とスンナ派のほか、キリスト教徒やヤズィード教徒なども存在する。

古代メソポタミアとイスラーム世界

イラクの地は、シュメール、バビロニア、アッシリアなどの都市国家や帝国が興亡した古代メソポタミア文明の核心部であった。これらの文明は楔形文字や法典などを生み出し、人類史に大きな足跡を残した。その後、7世紀のイスラームの拡大によりアラブ人勢力が進出し、バグダードはアッバース朝の首都として政治・文化の中心となる。現在のアラブ・イスラーム社会の基層には、この時期に形成された学問・宗教・都市文化の伝統が息づいている。

オスマン帝国支配と列強の進出

16世紀以降、現在のイラク地域はオスマン帝国の一部として統治され、バグダードなどの州都を拠点とした間接支配が行われた。19世紀になると、イギリスやロシアなど列強がペルシア湾やメソポタミアに関心を強め、通商や軍事的拠点の確保を進める。バグダード周辺の情勢は、のちに中東全域で進行するアラブ諸国の独立運動や、ペルシアでのパフレヴィー朝の成立、さらにはアフガニスタン独立など、広範な地域秩序の変化とも結びついていった。

イラク王国の成立と英領委任統治

第1次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、現在のイラクはイギリスの委任統治領とされる。イギリスはアラブ反乱で協力したヒジャーズ出身のファイサルを国王に迎え入れ、1921年にイラク王国が成立した。ファイサルは後にヒジャーズ=ネジド王国から誕生するサウジアラビア王国の支配者層とも関係を持ち、アラブ世界の王政ネットワークの一角を占めた。1932年には国際的に正式な独立が認められるが、軍事・外交面ではイギリスの影響がなお強く残り、王政と民族主義勢力との対立が続いた。

共和国体制とバース党政権

1958年の軍事クーデタにより王政は崩壊し、イラクは共和国を名乗る体制へ移行した。その後もクーデタが続き、1968年にはアラブ民族主義と社会主義を掲げるバース党が実権を掌握する。党内で台頭したサッダーム・フセインは、1970年代後半に事実上の最高権力者となり、石油国有化による財源を背景に強力な権威主義体制を築いた。同じ時期、東方ではイランでレザー=ハーン以来の近代化路線をとったパフレヴィー朝が革命で崩壊し、その混乱が1980年のイラン・イラク戦争勃発の一因となった。

湾岸戦争とイラク戦争

長期化したイラン・イラク戦争で疲弊したイラクは、1990年にクウェートへ侵攻し、これに対してアメリカを中心とする多国籍軍が軍事介入する湾岸戦争が起きた。戦争終結後、国際社会は厳しい経済制裁と兵器査察を課し、国内経済は深刻な打撃を受ける。2003年には、大量破壊兵器問題などを理由としたアメリカ主導の軍事行動によりフセイン政権が崩壊し、占領統治を経て新憲法の制定と選挙に基づく政治体制が整えられていった。こうした動きは、同時期に変化したエジプト王国ワフド党ムスリム同胞団をめぐるエジプト政治とも並行して、中東全域の政治秩序を揺るがした。

現代イラクの社会と課題

フセイン政権崩壊後のイラクでは、宗派や民族ごとの武装勢力が衝突し、特にスンナ派過激派組織の台頭と「イスラーム国(IS)」の支配拡大によって各地が戦闘地域となった。国際的な軍事協力と地元部族、クルド人勢力などの反攻によりISの支配領域は大きく後退したが、治安の不安定さや地域間格差、難民・国内避難民の問題は残されている。豊富な石油資源をどのように開発・分配し、多民族・多宗派社会の共存を実現するかは、今後のイラク国家形成にとって重要な課題であり、中東の歴史・政治を学ぶ上でも欠かせない主題である。