レザー=ハーン
レザー=ハーンは、20世紀前半のイランにおいて軍人から政治家へと転身し、最終的にパフレヴィー朝の創始者レザー・シャーとなった人物である。彼はペルシア・コサック旅団の軍人として台頭し、1921年のクーデタによって実権を握り、弱体化していたカジャール朝を打倒する土台を築いた。近代的な中央集権国家を目指す彼の政策は、国内の部族勢力や宗教勢力を抑えつつ、軍事・行政の改革を進めるものであり、その権力掌握の過程は中東近代史の重要な転換点となっている。
出生と軍人としての出発
レザー=ハーンは北部カスピ海沿岸地方の出身で、貧しい家庭に生まれたとされる。青年期に軍隊に志願し、ロシアの影響下にあったペルシア・コサック旅団に入隊することで出世の道を開いた。コサック旅団は当時のペルシアにおいて最も近代的な軍事組織の一つであり、ここでの経験が後の軍事クーデタと国家建設の基盤となった。
ペルシア・コサック旅団での台頭
コサック旅団でのレザー=ハーンは、規律の厳しさと実戦での勇敢さによって頭角を現し、やがて将校へと昇進していった。彼の台頭は、国内の政治的混乱と対照的であり、腐敗した宮廷政治と対比されて民衆や知識人から一定の期待を集めた。ロシアやイギリスなど列強が干渉を強めるなかで、軍事力を背景にした強力な指導者への待望論が生まれ、その受け皿の一人がレザーであった。
1921年クーデタと実権掌握
1921年、レザー=ハーンは政治家ザフイルッディーンらと協力し、軍事クーデタを敢行してテヘランを掌握した。このクーデタにより、彼は軍事・治安を掌る地位に就き、事実上の権力者として振る舞うようになる。形式的にはカジャール朝の王権は維持されたが、実際の政治の主導権はレザーの手に移り、政府の人事や政策に大きな影響力を及ぼした。
首相就任とカジャール朝の終焉
クーデタ後、レザー=ハーンは段階的に地位を高め、やがて首相の座についた。彼は行政機構と軍隊を掌握し、地方に強い影響力を持つ部族勢力を武力で制圧して中央集権化を進めた。こうした過程を経て、1925年には議会の決議によってカジャール朝が廃され、新たにパフレヴィー朝が成立し、レザーは国王レザー・シャーとして即位することになる。
近代国家建設の構想
レザー=ハーンの時代に構想された政策は、後のレザー・シャー期の近代化改革に直結するものであった。彼は強力な常備軍の整備、官僚機構の再編、道路や鉄道の建設などインフラ整備を重視し、伝統的な宗教権威に頼らない世俗的な国家を志向した。これらの構想は、同時期のトルコでムスタファ・ケマルの指導するトルコ共和国が進めた世俗化や中央集権化とも比較されることが多い。
国内勢力との関係
国内では、部族首長や宗教指導者が独自の権威と軍事力を持ち、中央政府の統制を妨げていた。レザー=ハーンは軍事力を背景に彼らを服従させ、あるいは反乱を鎮圧することで、国家の主権を中央に集中させた。その一方で、都市部の官僚や知識人の一部は、彼の強権的なやり方に不安を抱きつつも、秩序回復と近代化への期待から支持を寄せることもあった。
列強との関係と国際環境
19世紀以来、ペルシアはロシア革命前後のロシア帝国やイギリスの影響下にあり、領土の分割や利権侵出にさらされていた。レザー=ハーンはクーデタ後、このような従属的状況から脱しようとし、列強勢力の均衡を利用しながら主権回復を図った。第一次世界大戦後の国際秩序再編のなかで、彼は自国の中立と独立を強調し、軍事的・外交的な自立を追求したのである。
オスマン帝国崩壊との比較的文脈
同時期、近隣のオスマン帝国は崩壊し、その後継国家としてトルコ共和国が成立した。オスマン帝国の解体とケマル主導の改革は、レザー=ハーンにとっても重要な参照例となり、軍人出身の指導者が旧王朝の枠組みを打破して近代国家を打ち立てるという構図が地域全体に広がった。こうした地域的文脈のなかで、彼の権力掌握は中東の政治地図の再編と結びついて理解される。
名前と評価の整理
歴史研究では、クーデタから王位継承までの時期を語る場合にはレザー=ハーンという呼称が、王としての統治期にはレザー・シャーという呼び名が用いられることが多い。この区別は、軍人から実力者、そして国王へと変化していく彼の役割の推移を明確にするためである。彼は強権的な支配者として批判される一方、中央集権国家の確立やインフラ整備を通じて近代イランの骨格を形作った指導者として評価され、現在でもその功罪をめぐる議論が続いている。