ヒジャーズ=ネジド王国|サウジ建国前のアラビア国家

ヒジャーズ=ネジド王国

ヒジャーズ=ネジド王国は、第一次世界大戦後のアラビア半島に成立した国家であり、紅海沿岸のヒジャーズ地方と内陸部のネジド地方をイブン=サウードが統合して生まれた政体である。イスラームの聖地メッカとメディナを含むヒジャーズと、ワッハーブ派を基盤とする遊牧部族の拠点ネジドを一体化したこの王国は、のちのサウジアラビア王国成立に至る過渡的段階として位置づけられる。成立期にはイギリスとの条約や周辺のイラクヨルダンなど委任統治領との関係が重要な課題となり、中東国際秩序の再編過程を示す典型例とみなされる。

地理的範囲と歴史的背景

ヒジャーズ=ネジド王国を構成したヒジャーズ地方は、紅海に面し、メッカとメディナというイスラーム世界最大の聖地を擁する地域である。ここは長らくオスマン帝国の宗主権下に置かれていたが、第一次世界大戦中のアラブ反乱によってハーシム家のヒジャーズ王国が成立していた。これに対してネジド地方は内陸の高原地帯であり、サウード家とワッハーブ派の結びつきのもとで勢力を拡大していた。第一次世界大戦後、オスマン帝国支配の崩壊と列強による委任統治体制の成立を背景に、アラビア半島では部族勢力と新王国との抗争が続き、その中でサウード家が主導するネジド勢力が頭角を現したのである。

成立過程とイブン=サウードの拡張政策

ネジドの支配者イブン=サウードは、内陸部で勢力を固めたのち、ヒジャーズへの進出を開始した。彼は宗教的にはワッハーブ派の厳格なイスラーム解釈を掲げ、軍事的には部族民兵「イクワーン」を動員して各地を制圧した。1925年までにヒジャーズ王国を打倒し、メッカ・メディナを掌握したことで、彼はヒジャーズ王の称号を名乗るに至る。こうして内陸のネジド支配者であった彼が紅海沿岸の聖地をも併合し、ヒジャーズとネジドを合わせたヒジャーズ=ネジド王国が形成され、アラビア半島中部から西部にかけて広大な領域が一体的に統治されるようになった。

ヒジャーズ征服と聖地の掌握

ヒジャーズ征服は、アラブ反乱を主導したハーシム家のヒジャーズ王国に対する挑戦であった。メッカの守護者を自任したハーシム家は、のちにトランスヨルダンやイラク王国の王家としても存続するが、ヒジャーズの支配権そのものはサウード家に移された。これにより、イスラーム巡礼の中心地を支配する政治権力が交代し、遊牧的なネジド勢力が聖地統治を担うという新たな構図が生まれた。聖地支配は宗教的正統性と財政的収入をもたらし、ヒジャーズ=ネジド王国の基盤強化に決定的な役割を果たしたのである。

統治体制と社会構造

ヒジャーズ=ネジド王国の統治は、サウード家による世襲王権とワッハーブ派ウラマー(宗教学者)との協力関係を柱としていた。国家は近代的な官僚機構をまだ十分に備えておらず、多くの地域では部族首長との合意や宗教的権威による統制が政治の安定に利用された。ヒジャーズの都市住民や商人層は、もともと比較的コスモポリタンな文化を持っていたが、ネジドからもたらされた厳格な宗教規範により社会生活の規制が強まったとされる。一方で、巡礼者の増加にともなう経済活動や、紅海沿岸港湾と内陸オアシス都市の結びつきは、アラビア半島社会の再編を促す要因ともなった。

行政・財政の特徴

  • 財政基盤はメッカ巡礼(ハッジ)にともなう収入と、関税・部族貢納などに依存していた。
  • 行政面では王家の親族や忠実な部族首長が各地の総督として任命され、近代的官僚よりも個人的忠誠が重視された。
  • 司法はシャリーア(イスラーム法)にもとづき、ワッハーブ派の解釈に沿った厳格な裁判が行われた。

国際関係とイギリスとの条約

ヒジャーズ=ネジド王国は誕生当初から、周辺のイギリス委任統治領との関係調整を迫られた。イギリスは第一次世界大戦中にアラブ独立をめぐる複数の約束を行い、戦後にはサイクス=ピコ協定やバルフォア宣言などを通じて中東支配の枠組みを整えていた。そのなかで、アラビア半島内陸部のサウード家勢力を、フランスや他勢力への牽制として利用する意図も存在したとされる。1927年のジェッダ条約によって、イギリスはヒジャーズ=ネジド王国の独立と国境を承認し、これにより同王国は国際社会で主権国家として認知されることになった。また、この時期にはアメリカ資本による石油探査への関心も高まりつつあり、のちのサウジアラビアにおける石油開発の前段階として重要であった。

宗教と社会統合

ワッハーブ派は18世紀以来、ネジド地方で広がったイスラーム改革運動であり、偶像崇拝の否定や厳格な一神教の強調を特徴としていた。ヒジャーズ=ネジド王国においても、ワッハーブ派の教義は国家のイデオロギー的支柱とされ、聖地ヒジャーズにもその規範が及んだ。聖者崇敬の抑圧や墓廟の破壊など、従来のイスラーム慣行と衝突する政策もとられ、とくにスーフィー的信仰を重んじるムスリムとの間に緊張を生んだとされる。しかし同時に、統一された宗教規範は広大な部族社会を統合する装置として機能し、王権と宗教権威の提携という構図は、その後のイスラム教国家としてのサウジアラビアにも継承された。

サウジアラビア王国への移行

1920年代末には、ネジド側の急進的部族民兵イクワーンが王権に反発し、国境地帯で英領に対する襲撃を続けたため、イブン=サウードは彼らを武力制圧し、統治の安定化を図った。そのうえで、彼はヒジャーズとネジドを別個の王国として並立させる体制から、より一体的な国家への再編を志向した。1932年、ヒジャーズ=ネジド王国は正式に「サウジアラビア王国」へと改称され、サウード家の名を冠した現代国家が成立した。この改称によって、ヒジャーズとネジドを中心としたアラビア半島の大部分が一つの王国のもとに統合され、のちの石油開発と冷戦期における中東政治で大きな影響力をもつ国家の礎が築かれたのである。こうして、アラビア半島の再編過程の中間段階としてのヒジャーズ=ネジド王国は、その役割を終えつつも、地域史と国際政治史の双方からみて重要な転換点となった。