トランスヨルダン|英委任統治下のアラブ首長国

トランスヨルダン

トランスヨルダンは、ヨルダン川以東の地域に設けられたイギリス委任統治領であり、のちのヨルダン王国の前身となった政治単位である。第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、中東の旧領土は戦勝国による再分割の対象となり、その一部としてトランスヨルダンが形成された。名目上は国際連盟によるパレスチナ委任統治の一部であったが、実際にはハーシム家のアブドゥッラーを首長とする半独立的な首長国として運営された。第二次世界大戦期を通じて、イギリスの保護を受けつつも自治を拡大し、最終的に「トランスヨルダン・ハーシム王国」として独立し、のちに国名をヨルダン王国へと改めた。

成立の国際的背景

トランスヨルダンの成立は、第一次世界大戦後の中東再編と密接に関係している。戦前、この地域はオスマン帝国のシリア地方の一部であり、アンマンやマフラク周辺にはベドウィン部族と小規模な都市住民が点在する辺境地帯であった。戦時中に起こったアラブ反乱では、ヒジャーズのフセイン・ビン・アリーが英軍と協力してオスマン政権に反旗を翻し、その見返りとしてアラブ独立が約束されたと解された。しかし、背後ではサイクス=ピコ協定やバルフォア宣言が結ばれ、アラブ側の期待とは異なるかたちで領土が分割されたため、この地域は大戦後の交渉の中で調整対象となったのである。

パレスチナ委任統治との関係

大戦後、国際連盟はパレスチナ全域をイギリスの委任統治領とすることを承認し、その範囲にはヨルダン川西岸のパレスチナとともに、東岸のトランスヨルダン地域も含まれていた。当初、ロンドン政府は両地域を一括して統治する構想を持っていたが、ユダヤ人国家建設を支持したバルフォア宣言を東岸にまで適用することは、アラブ社会の強い反発を招くと判断された。その結果、パレスチナ委任統治領は事実上、西岸地域(パレスチナ)と東岸地域(トランスヨルダン)に分割され、東岸はユダヤ人国家建設の対象外とされる特別行政区として独自の政治枠組みが整えられていくことになった。

アブドゥッラーの進出と首長国の形成

1918年の大戦終結後、ヒジャーズのフセイン王の子アブドゥッラーは、シリアから追放された兄ファイサルを支援する名目で北進し、アラビア半島内陸からシリア方面への進軍を開始した。彼はやがてヨルダン川東岸に進出し、アンマンを拠点として勢力を固める。イギリスは、アブドゥッラーを利用して地域の秩序を安定させると同時に、ヒジャーズでのハーシム家の地位低下を補償する意図から、1921年にトランスヨルダン首長国の樹立を承認した。この結果、アブドゥッラーは首長(エミール)の地位につき、以後、彼とその子孫がこの地域を統治することになった。

委任統治下の統治構造

トランスヨルダンは名目上、パレスチナ高等弁務官の権限下に置かれたが、実際にはアンマンに置かれた首長政府が内政を担当し、外交や安全保障、財政の一部はイギリスが握るという二重構造であった。1928年には英・トランスヨルダン条約が締結され、自主権の範囲が文書化される一方、英国軍事顧問団や警察・軍の指導者にはイギリス人が配置され続けた。こうした仕組みのもとで、従来、部族単位に分立していたベドウィン社会は中央政府のもとに統合され、徴税や治安維持、裁判制度などが徐々に近代国家的な枠組みへと再編されていったのである。

社会と経済の変化

委任統治期のトランスヨルダンの人口は少なく、遊牧や半遊牧に従事するベドウィンと、オアシスや高原部に定住する農民が社会の中心であった。首長政府とイギリスは、道路・鉄道・通信といったインフラ整備を進め、アンマンやザルカなどの都市は行政・軍事拠点として急速に発展した。また、シリアやパレスチナからの移住者や商人が流入し、地方市場と都市市場が結びつくことで、経済的なネットワークが広がった。もっとも、財政基盤は依然として脆弱であり、長らく英国からの補助金に依存する構造が続いた点にトランスヨルダンの限界も見いだされる。

独立への過程

第二次世界大戦期になると、中東は対独戦と帝国防衛の要衝としての価値を増し、トランスヨルダンも英軍の補給・駐屯拠点として重要性を高めた。戦後、世界的な脱植民地化の潮流とアラブ諸国の独立運動の高まりの中で、アブドゥッラーは国家の完全独立を求めて交渉を進める。1946年の英・トランスヨルダン条約(ロンドン条約)により、トランスヨルダンは「トランスヨルダン・ハーシム王国」として独立国家であることが承認され、アブドゥッラーは王位に即いた。ただし、軍事協力や基地使用などをめぐっては引き続きイギリスとの特別関係が維持され、形式的独立から実質的独立へ移行するには時間を要した。

パレスチナ問題と領土拡大

独立後まもなく、1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)が勃発すると、トランスヨルダン軍(アラブ軍団)はパレスチナへ進軍し、旧委任統治領の一部を占領した。戦後の休戦協定により、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムは事実上トランスヨルダンの支配下に入り、その後、議会決議により正式に併合される。この領土拡大に伴い、王国の人口構成は大きく変化し、多数のパレスチナ系住民を抱え込むことになった。1950年には国名をヨルダン・ハーシム王国へと改称し、トランスヨルダンという地名は歴史的名称として用いられるようになったが、パレスチナ住民の問題はその後も国家の政治・社会を揺るがす要因として残り続けた。

近隣諸国との関係

トランスヨルダンの外交は、周辺のアラブ国家との関係によっても特徴づけられる。西側のパレスチナをめぐる対立だけでなく、北のシリア、東のイラク、南西のサウジアラビア王国との国境画定や、部族勢力の移動をめぐる問題が続いた。特に、同じハーシム家が王位に就いたイラクとは王朝的な結びつきが強く、しばしば連邦構想が議論された。一方で、アラビア半島の覇権を握ったサウジアラビアとは、ヒジャーズをめぐる歴史的経緯から複雑なライバル関係も存在した。このように、トランスヨルダンは中東の大国ではないものの、各勢力の間で均衡をとることで独自の生存戦略を模索したのである。

トランスヨルダンの歴史的意義

  • トランスヨルダンは、第一次世界大戦後の中東再編のなかで、旧オスマン領から新たに形成されたアラブ国家のひとつであり、ヨーロッパ列強による委任統治とアラブ君主制の折衷的な形態を示した。
  • ハーシム家の王権は、ヒジャーズから追われた一族が新たな拠点を得た事例として、同じく新王朝を打ち立てたサウジアラビア王国との対比の中で理解される。
  • パレスチナとヨルダン川東岸を分ける枠組みは、のちのパレスチナ問題の構図や、アラブ・イスラエル紛争の地政学的前提を形づくる重要な要素となった。
  • トランスヨルダンからヨルダン王国への移行は、形式的な国名変更にとどまらず、領土・人口・政治構造の大きな変化を伴う過程であり、中東における国家形成と民族問題を考えるうえで欠かせない事例である。