ザンド朝|18世紀イランの中興王朝

ザンド朝

ザンド朝は、18世紀後半のイランに成立した地方王朝であり、ナーディル=シャー没後の内戦期に台頭したカリム・ハーン・ザンドを中心として、西部・南部イランを広く支配した政権である。サファヴィー朝崩壊後の混乱を受けて短命に終わったアフシャール朝に続く王朝であり、都をシーラーズに置き、比較的安定した統治と商業の復興を実現した点に特色がある。形式的にはサファヴィー朝以来の「シャー」の称号を必ずしも用いず、「人民の代理人」を自称したカリム・ハーンの統治は、のちのカージャール朝成立へとつながる過渡期の体制として理解される。

ザンド朝成立の背景

ザンド朝の成立は、ナーディル=シャーが殺害された1747年以降の権力空白と深く結びついている。アフシャール朝の中央権力が崩壊すると、各地の部族勢力や軍司令官が自立し、内戦状態が続いた。ザンド族出身のカリム・ハーンは南西イランで勢力を拡大し、同時期に台頭した他の有力者を次第に排除していった。1750年代までに彼はイスファハーンやシーラーズなど重要都市を掌握し、事実上イラン西・南部の覇者となったが、自身は「王」を名乗らず、サファヴィー家の名目上の王を擁立する形で統治の正統性を装った。こうして部族連合的な性格を持つザンド朝政権が形成されていったのである。

カリム・ハーンの統治と内政

カリム・ハーンの時代はザンド朝の最盛期であり、相対的な安定と経済復興が実現した時期とされる。彼は首都をイスファハーンではなくシーラーズに定め、宮殿と城塞から成る「カリム・ハーン城塞」を築き、都市整備やバザールの建設を進めた。これはサファヴィー朝時代のイスファハーンに匹敵する政治・商業の中心を南部に創出しようとした試みであったと理解される。また重税の軽減や地方有力者との妥協によって農村経済の回復を図り、部族勢力を軍事力の基盤としつつも、過度な略奪を抑えることで社会秩序の維持に努めた。

  • 部族軍を中核とする軍事体制の整備
  • シーラーズの都市建設とバザールの拡充
  • 税制の調整と農村復興策の実施

対外関係とペルシア湾交易

カリム・ハーン期のザンド朝は、対外戦争よりも国内統治の安定を優先したが、ペルシア湾沿岸やイラク方面をめぐっては周辺勢力との対立もみられた。バスラをめぐる紛争ではオスマン帝国と対峙し、ペルシア湾岸の港市を掌握することで海上交易への関与を強めた。また、イギリス東インド会社などヨーロッパ商人との通商を認め、南部ペルシア経済の活性化を図ったとされる。サファヴィー朝末期に衰退していた対外交易が、カリム・ハーンの下で一定の回復をみせたことは、のちのイスラーム世界とヨーロッパとの関係史の中でも注目される。

社会・文化と宗教政策

ザンド朝の支配地域では、サファヴィー朝以来のシーア派国家としての性格が継続した。カリム・ハーンはシーア派聖廟や宗教都市への保護を行い、宗教的正統性を強調することで部族連合的な支配を補完した。南部のシーラーズは詩人ハーフェズの墓所があることで知られ、ザンド期にも庭園や建築の整備を通じて文化的中心地としての性格を強めたとされる。宗教政策においては急進的な改革よりも従来の秩序の維持が重視され、シーア派ウラマーとの協調を通じて社会統合が図られた。このようにザンド朝は、サファヴィー朝以来のシーア派王朝としての伝統と、部族的権力構造を組み合わせた体制であったといえる。

ザンド朝の衰退と滅亡

1779年にカリム・ハーンが死去すると、ザンド朝内部では後継者争いが激化した。ザンド家一族や軍司令官たちが互いに争い、短期間に支配者が交代した結果、地方有力者への統制力は急速に弱まった。この混乱の中で北部イランではカージャール族の指導者アーガー・モハンマド・ハーンが台頭し、テヘランを拠点に勢力を拡大した。最後のザンド家の有力者ロトフ・アリー・ハーンは抵抗を続けたものの、1790年代までに主要都市を失い、1794年ごろまでにはザンド政権は事実上滅亡した。こうしてイラン全土の再統一はカージャール朝の下で進められることになった。

ザンド朝の歴史的意義

ザンド朝は支配領域こそイラン全土に及ばず、期間も長くはなかったが、サファヴィー朝崩壊後の内戦期に西・南部イランの秩序を回復し、経済と都市社会の再建に一定の役割を果たした点で重要である。とくにカリム・ハーンの統治は専制的なシャー像とは異なる穏健な支配者像として評価されることが多く、シーラーズの都市景観や建築遺産はその具体的な成果として今日まで残されている。また、アフシャール朝とカージャール朝のあいだに位置するザンド朝を検討することは、18世紀から19世紀初頭にかけてのイラン国家の変容や、部族勢力と中央政権の関係を理解するうえで欠かせない視点を与えている。