アフシャール朝|短命だが強力なイラン王朝

アフシャール朝

アフシャール朝は、18世紀前半にイラン東北部のトルコ系遊牧部族アフシャール族の首長ナーディルを中心に成立した王朝である。18世紀初頭に衰退したサファヴィー朝の後を受け、内乱と外敵侵入で混乱していたイラン世界を一時的に再統合し、インド・中央アジア・コーカサスにまで遠征することで、イラン史上でも屈指の軍事的版図を築いた点に特徴がある。しかしその支配は重税と軍事動員に依存していたため、創始者ナーディルの死後急速に瓦解し、イランはザンド朝やカージャール朝など諸勢力が割拠する時代へと向かっていった。

成立の背景

18世紀初頭、イランを支配していたサファヴィー朝は長期の平和と官僚制の肥大化により軍事的活力を失い、地方では部族勢力の自立が進んでいた。そこへアフガン系勢力が侵入し、イスファハーンを占領して王朝を事実上崩壊させると、イラン各地は戦乱状態に陥った。この状況のなかで東北部ホラーサーン地方から台頭したのが、アフシャール族出身の軍事指導者ナーディルであり、彼はサファヴィー家の王子を擁立してアフガン勢力やオスマン帝国軍と戦い、失われた領土の回復を進めた。こうした軍事的成功を背景に、ナーディルは1736年に自らシャー(王)として即位し、アフシャール朝を打ち立てたのである。

ナーディル=シャーの遠征と帝国の最盛期

ナーディル=シャーの治世は、ほぼ絶え間ない戦争と遠征の時代であった。彼はまずアフガン勢力を駆逐してイラン高原の支配を固めると、次いでカスピ海沿岸や南コーカサス、中央アジアに進軍し、失われていた旧サファヴィー領を取り戻した。さらに彼の軍事行動で最も有名なのが、北インドへの遠征である。ムガル帝国の内紛に乗じてデリーに進軍したナーディルは、1740年前後に皇帝軍を破って都を占領し、莫大な財宝を持ち帰った。この戦利品は一時的にイラン財政を潤し、アフシャール朝の権威を誇示したが、同時に周辺諸国には強大だが予測不能な征服者として恐れられる結果ともなった。

  • ホラーサーン地方の部族連合を基盤とする軍事国家としての性格
  • 南コーカサス・中央アジア・インド北部におよぶ広大な遠征
  • ムガル帝国支配下のデリー攻略と宝物の獲得に象徴される略奪的財政

統治の仕組みと宗教・社会政策

アフシャール朝の統治は、ナーディル個人の軍事的カリスマに強く依存していた。彼は部族軍と奴隷兵を組み合わせた軍制を整え、戦利品と徴税によって軍隊を維持したが、その結果、農村や都市への課税負担は急激に増大した。また彼はシーア派国家としてのサファヴィー朝と異なり、宗教政策において独自の路線を試みた。すなわち、イランの多数派であるシーア派の教義を一定程度維持しつつ、スンナ派世界との対立を和らげるため、シーア派法学をスンナ派四法学派に並ぶ「第五の法学派」として承認させようとしたのである。これはイランの歴史におけるシーア派とスンナ派の対立構造を緩和しようとする試みでもあったが、国内の宗教勢力からは必ずしも歓迎されず、上からの政策として終わった。

ナーディルの専制化と王朝の動揺

度重なる遠征と財政難は、ナーディルの政治姿勢を次第に専制的かつ苛烈なものに変えていった。反乱の兆しがあるとみなした将軍や部族長を容赦なく処刑し、地方には重税を課したため、イラン各地で反乱と逃散が頻発した。軍事の成功によって築かれた威信は、内政の混乱によって次第に損なわれ、最終的に1747年、ナーディルは側近の将兵によって暗殺されるに至った。君主暗殺は中東史では珍しくないが、創始者個人に依存していたアフシャール朝にとって、その死は王朝の急速な崩壊を意味した。

王朝の分裂とザンド朝・カージャール朝への移行

ナーディルの死後、広大な征服領は直ちに分裂した。アフガンやインド北部、中央アジアでは地方支配者が自立し、旧宗主国ムガル帝国や遊牧勢力との間で新たな勢力均衡が模索された。イラン本土でも、ホラーサーンに残ったアフシャール家の一族が名目上の支配を続ける一方、南部や中部ではザンド族の首長が台頭してザンド朝を樹立し、さらに19世紀初頭にはテュルク系部族長を基盤とするカージャール朝がイラン全土の再統一を達成した。この過程で、アフシャール朝はホラーサーン地方の一地方政権へと縮小し、最終的には新興勢力によって吸収されて消滅した。

周辺地域への影響と歴史的意義

アフシャール朝の歴史的意義は、第一にイラン国家の軍事的復活を実現した点にある。アフガン侵入や内乱で崩壊寸前にあったイランは、ナーディルのもとで再び大征服を行い、南アジアのムガル帝国やコーカサス・中央アジア諸勢力に強い影響を与えた。第二に、その支配が短命であったにもかかわらず、サファヴィー朝からザンド朝・カージャール朝へ至る過渡期において、領土・軍制・宗教政策の再編を試みた点が挙げられる。第三に、ナーディルの専制化と王朝崩壊の経験は、後続のイラン統治者にとって「征服王の成功と失敗」を示す教訓となり、19世紀のイランの歴史や対外関係を考えるうえでも重要な参照点となった。こうして、アフシャール朝は短期間ながらも、サファヴィー朝と近代イラン王朝のあいだをつなぐ架け橋として位置づけられている。