カージャール朝|近世イランのトルコ系王朝

カージャール朝

カージャール朝は、18世紀末から1925年までイランを支配したトルコ系部族王朝である。前のアフシャール朝ザンド朝期に続いた内戦と分裂を収束させ、テヘランを都とする中央集権国家を築いた。一方で、ロシアとイギリスという列強の圧力の下で領土を喪失し、経済的従属を深めた王朝でもあり、近代イラン史における「半植民地化」と立憲革命の舞台となった。

成立の背景と王朝の創始

カージャール朝の支配母体となったカージャール部族は、サファヴィー朝時代からコーカサスとイラン北部に勢力を持っていた。18世紀半ばにはナーディル=シャーの軍事政権とザンド朝が相次いで崩壊し、各地で部族勢力や地方豪族が割拠した。この混乱の中で、アーガー・モハンマド・ハーンが諸勢力を武力で制圧し、1796年頃までにイラン高原の大部分を統一して王位を名乗ったことがカージャール朝の始まりとされる。

統治体制と社会構造

カージャール朝は、遊牧部族出身の王権と在地有力者・都市の商人層、さらにシーア派ウラマー(聖職者)の三者の均衡の上に成り立っていた。国王は軍事力と財政を握る一方、地方では部族長や豪族が徴税権や治安維持を担い、中央の統制は限定的であった。王権を支えたのは土地税と関税収入であり、農村社会では小農と大土地所有者の格差が拡大した。また、シーア派を国教とする体制の下で、ウラマーは婚姻・相続など日常生活の法的領域を統制し、後に政治運動でも大きな役割を果たすことになる。

列強の圧力と領土喪失

19世紀に入ると、カージャール朝は南下政策を進めるロシア帝国とインドを支配するイギリスの対立、いわゆる「グレート・ゲーム」の舞台に巻き込まれた。ロシアとの戦争に敗北した結果、ゴレスターン条約(1813年)とトルコマーンチャーイ条約(1828年)によってコーカサスの広大な領土を失い、関税自主権の制限や治外法権を認めさせられた。こうした不平等条約はイラン経済を列強に開き、後の譲与契約(コンセッション)乱発と財政破綻につながり、国内の不満を高めた。

近代改革と立憲革命

ナースィルッディーン・シャーの時代、中央政府は軍制改革や学校設立、官僚制整備などの近代化を試みたが、財政難から外国資本への依存が強まった。タバコ専売権の譲渡に対しては、1891年に全国的なタバコ・ボイコットが起こり、ウラマーと商人が連携した抵抗運動が成功を収めた。この経験は政治的動員のモデルとなり、やがて1905年以降の立憲革命へとつながる。同時代のオスマン帝国でのギュルハネ勅令タンジマートアブデュルメジト1世アブデュルハミト2世の改革と比較されることも多い。立憲革命の結果、1906年には国民議会(マジュレス)と憲法が制定され、カージャール朝は名目的ながら立憲君主制へと転換した。

王朝の崩壊とその歴史的意義

しかし、立憲制は内戦と外国軍の干渉の中で不安定であり、第一次世界大戦期にはロシア軍や英軍の侵入、地方武装勢力の台頭によって中央政府の権威は大きく揺らいだ。1921年にはレザー・ハーンがクーデタで実権を握り、1925年に議会の決議によってカージャール朝は正式に廃され、パフレヴィー朝が成立した。カージャール朝は、伝統的な部族王権から近代国家への移行、列強との不平等な関係、そして立憲主義の萌芽が重なり合う時期を体現しており、近代イランの政治文化と社会構造を理解するうえで不可欠な時代と位置づけられる。