バールーフ・デ・スピノザ|思想と哲学

バールーフ・デ・スピノザ Baruch De Spinoza 1632年~1637年

スピノザは17世紀のオランダの哲学者、数学者、科学者。主著は『エチカ(倫理学)』スピノザは、デカルトを追って、哲学を、数学を範として、従来の乱雑性から脱出させようとした哲学者の一人である。系譜としては大陸合理論に位置づく。またスピノザは真の論理的徹底を実現した哲学者であり、倫理学を、幾何学的順序に従って証明した点にスピノザ哲学の特徴がある。スピノザの学体系は実体、属性、様態の三つの根本概念から成り立っている。その他の問題はすべて、この三つから数学的必然をもって演繹される。また、デカルトが精神と身体を二つの異なる実体とした心身二元論に対して、、神を無限で永遠の唯一の実体とし、思考(精神)と広がり(物体)は神の二つの属性であり、両者は神において統一されていると説いた。神の二つのあらわれである精神と物体には、対応関係があり、人間における身心の並行論が説かれる。自然を無限の実体である神のあらわれとする。「神即自然」という汎神論的な哲学は、神を自然を超越した創造主とする立場からは唯物論で無神論者として非難されたが、ただひとつの実体を神としたことから、「神に酔える哲学者」とも呼ばれた。なお、主著『エチカ』の正式名書は『幾何学によって証明されたエチカ』といい、このことからもスピノザの倫理学が定義と定理から証明されていることがわかる。

スピノザ

スピノザ

生涯

スペイン異端審問所を逃れたユダヤ人の商人の子としてオランダのアムステルダムで生まれた。正統派ユダヤ教徒として育てられ、アイモニデスを含む多くのユダヤ人哲学者の研究を学んだ。デカルト合理論を研究し、自由思想をいだいて宗教を批判したためにユダヤ教会から破門された。その後、レンズ磨きで生計を立て、コレギアント派のプロテスタントの友人たちとグループを作った。1661年、デカルト哲学について影響を受けるとともに批判をこなった『知性改善論』を書き始めた。1663年には『エチカ』を書き始めたが、出版されるのは1675年、スピノザの死後であった。思想と言論の自由を擁護する論考『神学・政治論』が1670年に出版される。『神学・政治論』は当初は匿名で出版されたが、すぐにスピノザの著作であることがわかる。正統派の神学者に衝撃を与え、多くの批判が集中した。オランダの自由な気風のため拘束されることはなかったが、ハーダに移って自由思想家として孤独の中で哲学に没頭し、44歳で肺の持病のため死去した。

略年

1632年 ポルトガルに生誕
1661年 『知性改善論』(未完)
1673年 ハイデルベルク大学に招聘されるも断る
1675年 『エチカ』(死後出版される)
1677年 死去

実体は神

スピノザデカルト実体という概念から出発する。スピノザにとって実体とは、その存在によって他の何ものをも必要としないものであり、その概念を説明するのに他の原因を必要としないものをいう。その意味で、実体は唯一でなければならないと考えた。したがって、実体は神である。「実体即神」ということは定義から必然的に導かれる自己に原因を有し、原因そのもの、自因と及ばれるものを含んでいるのが実体である。そして、自因とは、その本質が存在を含めるもの、即ち、本性上、存在するとの外は考えることが出来ないものである。というわけで、神は「存在する」ということの外は考えることができない。自己によって存在し、自己によってのみ理解される実態は他のなんらの制約をも受けない。実体には時間や空間は通用しなく、むしろ、その意味で実体は永劫無限であるといえる。だから、「神即自然」であって、神の本質そのものから、自然が出てくる。また、スピノザは神を能産的自然と名づけその他の存在者を所産的自然と呼んだ。
実体は自己原因である。 他のものを原因とするのではなく、自らを原因とする。
実体は無限である。 有限であれば、同じ性質を持つ他のものによって限界づけられており、他のものに依存している。
実体は唯一である。
もしも実体が多数あれば、他のものとの関係において存在することとなる。
実体は神である。一切のものはこの神のうちに存在する。(汎神論

汎神論

神が自然に超越せず存在して内在し、自然の法則を祖として神の法則は無いという考え方を汎神論(神すなわち自然)といい、スピノザの神には人格がなかった。また、神と自然との関係において、スピノザは神が自然に内在し、自然の法則を外ににして神の法則はない。神の本質そのものから自然は出てくる。神と神によって創造された世界はひとつの実体であり、このただひとつの偉大なシステムは論理的関係で成り立っており、システム全体を知ることは神を知ることと同じである。真理と宇宙のすべては相互関係を成している。

「自然の中には偶然的なものなどなにひとつ存在しない。一切は神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。」

属性と様態

この実体を中心にして、世界の一切を因果関係における必然性として演繹する。(完全なる論理的・数学的徹底による説明)実体は神であり、自然であり、したがって一切であり、すべては実体の中に包摂される。それゆえ、実体は無限の属性を含む。しかし、制限された我々に認識されるのは、思惟(精神)と延長(物体)の二つしかいない。このふたつをもってしか、我々は、実体の持つ無限性そのものしか知ることができず、ただ思惟(精神)と延長(物体)の二つを通してしか世界を知ることができない。無限の存在である神には無限の属性があるが、人間はそのうちの思惟(精神)と延長(物体)のみを認識する。

デカルトとの比較

デカルトが精神と物体とは二義的ではあったが実体であり、思惟と延長がこの実体のそれぞれの属性としたが、スピノザは二つの属性をただひとつの実体たる神に即した。

個物の説明

個物は実体の様態であるという属性が実体の本質であるならば、その出没転変する変化の姿である。しかし、実体と様態が離れているわけではなく、相即不離である。実体は単独で自存するが、様態は実体なくしてはありえない。様態は偶然的であるといえる。精神と物体とは様態である。

精神と身体の関係

スピノザ哲学における様態とは、実体の変様、他のもののうちに存在し、他のものによって考えられるものと定義される。思惟(精神)と延長(物体)とは完全に異なる属性の様態であるから、両者はお互いに因と果の如き関係を持つことが出来ない。しかし、思惟(精神)と延長(物体)とは、元は、同一実体の属性である。したがって両者は決して独立した2個の延長ではなく、同一実体の二方面である。単に見方の相違と考える良い。つまり、延長の方面から見ると、物体として現われ、思惟の方面から見ると精神として現われるのである。もっと踏み込めば、有限な事物(個体)は神の属性の変様であり、神の状態であるにすぎない。実際に存在するのは実体だけであり、個体が存在すると思うのは、一種の錯覚であるといえる。

永遠の相の下に-自由意志の否定

「永遠の相の下に」とは、万物をその本質によって、実体の本質の必然的結果として見るということである。全てのものは実体の必然的法則の下にあり、したがって、一切は必然的に存在し、世界は現在あるよりも外にありえず、あらゆる可能性はないというのが、スピノザの根本主義であり、「永遠の相の下に」見るということは、必然性を通して物を見るということである。もちろん、人間もその例外ではなく、徹底した決定論を唱え、自由意志の否定した。

精神の中には絶対的な意志や自由な意志は存在しない。むしろ精神は、このことやあのことを意志するようにある原因によって決定され、この原因も他の原因によって決定され、さらにその原因によって決定され、さらにその原因によって決定される。そしてそのように無限に進むのである。

スピノザの神

人間のみではなく、神もまた必然の中にある。神を人格的に考えたり、意思や知識の付与は、必然の法則以外の目的を認めることであり、無知の結果であるとして否定される。神にこの世界以外の世界を作る可能性を求めることは、神への冒涜である。そして、万物を「永遠の相の下に」認識することはやがて真の自由を知ることであり、これに合一することによって得ることができる。

いっさいは神の能力に依存する。それゆえ、ものが異なった状態で存在するためには神の意志に変化がなければならないだろう。ところが神の意志は(神の完全さから極めて明瞭に示してきたように)変化することはありえない。それゆえ、ものが今とは異なったあり方で存在することはできない。

コナトス

スピノザによれば、すべてのものはコナトス(努力)を持つ。コナトスは、「自己の保存に固執しようと努力する」ことであり、人間も例外ではなく、人間の本性は自己保存のコナトス(努力)と言う点にある。たとえば、有機体がもつものであり、有機体は傷つけられたり危害を加えられたりすることから逃れるために反応したりする。人間において、この努力を充たすこと、それが道徳であって、それゆえ、一つの力であるといえる。ところで、人間の持つ最も純粋な力は精神力である。そして、精神力の真髄は知力である。したがって、徳と力と知とは、スピノザによって、同一である。知識の増大→自由の増大→徳が完全にとなり、人間の至上の善は、神の知識であると結論付ける。

「いかなるものにとっても、自分の存在に固執しようとする努力(コナトス)こそが、ほかでもなくもの自身の事実上の本質をなす。」(スピノザ)

神に対する知的愛

力の増大を感じることは歓喜である。われわれの知識が完全に近づくか否かによって、喜びとなって現われる。そして、喜びを生ずる原因に対して抱く感情が愛だけである。だから神の認識により、我らの力と知の増大の極に達すれば、我々の喜びの原因たる神に対する愛も至大であるということになる。神への愛と神とは同一である。天地自然の立法に没入し、実体の必然の下に神を知ることがただちに神への愛であった。われわれの知と愛とによって、神はただちにわれわれのものとなり、われわれの精神は神につながることができる。

真理への道

スピノザは三種類の認識を区別している。
第一種の認識は想像による認識で不十分なものである。感覚は、我々はこの原因を知り得ることができず明晰ではない。なお、一般概念(記号)も「羽のない二足動物」、「笑う動物」、「理性的動物」といった人間の定義にすぎなく、各人によって異なるもので、不明瞭な感覚が基礎となっている。
第二種の認識は理性(共通概念)による認識である。ここでの共通概念はすべてのものの共通性を表す概念であり、「すべての物体は延長する」「すべての精神は思惟の状態である」等、すべての事物は紙の上に成り立つので、すべての観念は神に関係づけられる限り真であるといえる。第一種の認識に比べ十全で神に到達できるが、いまだ不十分であると言える。
第三の認識は、理性(直感知)による認識である。直感知はほかから導出されるものではなく、それ自身において自明な認識、芸術的な認識である。たとえば、1:2=3:Xという比例式は、計算をしなくてもX=6であることがわかる。神および神の属性の観念を直感知するのが究極の認識である。後にシェリングの知的直観につながる。

「我々が個々の対象のについて多くを理解すればするほど、ますます神を理解する。」スピノザ

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