サイゴン
かつてサイゴンと呼ばれた都市は、現在のベトナム南部に位置するホーチミン市の中心部に相当し、メコン・デルタ北端に位置する大都市である。南シナ海へと通じるサイゴン川の水運と周辺の稲作地帯を背景に、前近代には地域交易の拠点として成長し、近代以降はフランス植民地支配とベトナム共和国(南ベトナム)の首都として、政治・経済・文化の中心として機能した。都市の景観や社会構造には、阮朝期の伝統都市、フランスの植民地都市計画、冷戦期の反共都市という複数の層が重なっており、近現代ベトナム史を理解するうえで重要なキーワードとなる。
名称と位置
サイゴンは、ベトナム語の「サイゴン(Sài Gòn)」に由来し、漢字では「西貢」と表記された。ベトナム戦争終結後の一九七六年、ベトナム社会主義共和国政府は都市名を「ホーチミン市」に改称したが、日常的な呼称や歴史的文脈では、現在も中心部を指してサイゴンと呼ぶ用法が残っている。地理的にはメコン・デルタの北側、サイゴン川右岸に位置し、河川交通と海上交通の結節点として、東南アジア海域世界と内陸農村を結ぶ玄関口の役割を果たしてきた。
前近代の歴史的背景
もともとサイゴン周辺はクメール系勢力の支配下にあったが、一七世紀以降、南進政策を進めるベトナム人勢力が進出し、阮氏政権の一部として組み込まれていった。やがて阮氏は一八世紀末の西山の乱によって一時的に駆逐されるが、阮福暎が反乱を鎮圧して統一王朝を樹立し、阮朝が成立すると、南部の拠点都市としてサイゴン(嘉定)は重要性を増していった。この過程では、西山政権による改革と権力闘争をめぐる西山朝の動向、さらには南部を基盤とした諸勢力の合従連衡が重なり合い、南部都市の政治的位置づけが大きく揺れ動いた。
フランス植民地都市としての発展
一九世紀半ば、フランスはカトリック宣教師保護と通商拡大を名目に南ベトナムへ軍事介入し、南部の要衝であったサイゴンを占領した。フランスは一八六二年のサイゴン条約によってコーチシナ東部三省の割譲と通商特権を獲得し、サイゴンをフランス領コーチシナの首府と定めた。この過程には、阮氏政権と結びついた宣教師ピニョーの活動や、フエを拠点とする皇帝宮廷との交渉が影響しており、南部都市サイゴンは、伝統王朝である阮朝とフランス帝国主義の板挟みとなる空間となった。フランスは広い街路、ヨーロッパ風官庁街、教会や劇場を建設し、東南アジアにおける「東洋のパリ」としてのイメージを形成していった。
植民地経済と社会構造
フランス統治下のサイゴンは、米やゴムなどの輸出港として発展し、メコン・デルタの農産物が集積する経済中心となった。港湾施設や鉄道網の整備によって、メコン地域の農村は世界市場と結びつき、商人層・官吏・労働者が都市へ集中した。都市社会はフランス人官僚や企業家、華人商人、ベトナム人知識人・労働者など多様な集団から構成され、言語・宗教・生活様式の違いが階層秩序と結びついて現れた。このような植民地都市社会は、同時期にスペイン領マニラが対外貿易の拠点として変容した経緯(マニラ開港)や、イギリスがビルマを併合して新たな港湾都市を形成した動き(イギリス=ビルマ戦争)と並行して理解することができる。
越南国とベトナム共和国の首都
二〇世紀前半、フランス支配への抵抗が高まるなかで、第二次世界大戦後には日本軍進駐と仏軍復帰をめぐってベトナム全土が混乱し、サイゴンも政治闘争の舞台となった。戦後の一九四九年にはフランスの支援の下で越南国が樹立され、その首都はサイゴンに置かれた。さらにジュネーヴ協定によって南北分断が確定すると、南のベトナム共和国(南ベトナム)はサイゴンを首都として反共政権を維持し、アメリカ合衆国の支援の下で経済開発と軍備増強を進めた。この時期のサイゴンは、北ベトナムおよび解放勢力との対立が激化するベトナム戦争の中枢として、冷戦構造のなかで世界の注目を集める都市となった。
ホーチミン市とサイゴンの名の継承
一九七五年のいわゆる「サイゴン陥落」によって南ベトナム政権が崩壊し、翌年に都市名は正式にホーチミン市へ改称された。しかし、商業地区や旧市街を指す日常語として、あるいは歴史的時代を示す用語として、サイゴンという名称は現在も広く用いられている。都市景観にはフランス植民地時代の建築物やベトナム共和国期の近代建築が残存し、観光や映画、文学作品などを通じて、「コロニアル都市」「戦争の都市」といったイメージが再生産されている。こうした重層的な歴史をもつサイゴンは、東南アジア世界における帝国主義とナショナリズム、冷戦と脱植民地化を読み解くうえで、重要な事例として位置づけられる。
周辺史との関連
サイゴンの歴史は、ベトナム内部の権力変動だけでなく、東南アジア全体の近代史と密接に結びついている。一八世紀末のタイソンの乱や西山朝の興亡、阮氏による統一王朝阮朝の成立といった国内政治の転換点に加え、フランスの侵略を規定したサイゴン条約や宣教師ピニョーの外交活動は、南部都市サイゴンの運命を大きく左右した。また、ビルマやフィリピンに対する欧米列強の介入(ビルマ戦争やマニラ開港など)と比較することで、港湾都市を拠点とする帝国主義政策の共通性と、各地域の固有性を明らかにすることができる。